032 過去

 永遠に変わらない人の思いなんてない。
 特にアスル・アズールのようなヤツは、それが激しい。多分、私が普通の女の人と同じようなことをしたら、あいつはいっぺんに目が覚める。いや、興味を失くす……というほうが正しいかな。
 どちらにしても、自分の存在を否定されるのはキツイんだよ――と、言うと、フィデールから「そんなものですかね」というような返事が返ってきた。
 そっか、フィデールのように、常に自分の存在を否定されているような人には、特に精神的に来るようなものではないのかもしれない。

「すみません、理解できなくて」

 そんな私の心を読み取ったかのように、フィデールは申し訳なさそうな顔をした。
 ううむ、話す人を間違ったような……いや、やっぱり一番いいのかもしれない。愚痴というものはただ聞いてくれるだけでも、ある程度解消される。

「別に。聞いてくれるだけですっきりするし」
「そういうものですかね?」
「ある程度はね。でも、フィデールの場合、話すだけじゃあ足りないくらい溜まっていそうだけど」
「……私のことはいいので」

 だけど、フィデールは本当に自分のことには無頓着だった。
 うーん……今度は自白剤でも作って、思い切り吐かせるか。でないとどこかで壊れるぞ、この人。
 と、とりあえずそれはおいといて、お茶に口をつけた。

 

 ***

 

 私の相手はいわゆる“幼馴染”だった。
 プライバシーもへったくれもない状態で、兄弟と彼と、そして、同じく幼馴染の女の子と一緒に成長した。
 彼――優太ユウタは私の兄弟で慣れていたのもあって、大人しい女の子――奈々ナナより私と一緒にいるほうが気楽だったようだ。
 そのせいか、優太にとって一番身近な女の子は私で、高校に入る前、優太は奈々じゃなく、私に言った。

『俺たち、付き合わないか?』

 ――と。
 奈々の気持ちを知っていたから、少し迷った。
 でも、私も優太のことが好きだった。だから付き合いだした。
 最初は今までの延長だった。互いに異性としてあまり意識してなかったから、少しだけ仲がよくなったという程度。でも、優太は付き合いやすいと言ってくれた。
 高校に入ってから、奈々抜きで会うことが多くなって、少しずつ恋人と言えるような関係になっていって……。
 気づくと、奈々のことはなるべく目に入れないようにしていた。それが、奈々を傷つけていることに気づかずに。

 でも、大学は離れ離れになった。
 優太は地元の大学に。私は地元から離れた大学で一人暮らしをはじめた。
 最初の頃は、実家に戻れば会って互いの大学の話をして、たまに優太のほうが私のところに遊びに来て――遠距離、という程じゃないけど、それなりに付き合いが続いていた。
 適度な距離で丁度いい、と思っていた。
 でも、そう思っていたのは、私だけだった。

 大学に入ってしばらくして、バイト先で知り合った友だちとカラオケに行った。歌うのはストレス発散になっていたから、その時も喜んで歌った。
 歌っている間に、数人が部屋に入ってくる。ん? と思ってると、友達と話し始めてるから、友達の友達だと分かった。
 気にせず歌っていたら、その中の一人に何故か気に入られた。あとで話したら、バンドをやってるという。今度仲間に紹介するよ、という話からあっという間に、何故かそこで歌う羽目になっていた。
 小さいけどステージの上で声を張り上げて歌うのは爽快感があって、一度やったらこの感覚が忘れられなくなった。
 幸いというか、彼らも私の声を気に入って、仲間に入れてくれるという。メインじゃないものの、あそこでもう一度歌いたいという気持ちから、私は彼らの仲間になった。
 その後、紆余曲折を経て、いつの間にかメインで歌うようになってた。
 ヤロウばかりの中で、紅一点になるか? ということはなく、中性的なのがいいと言われ、前に言ったとおり髪を切る羽目になり、見た目ヤロウばかりのバンドになった。

 でも、楽しかった。
 優太のことを忘れるほどに。

 実家に戻らなくなって、たまにする電話でのやり取りだけが、唯一の繋がりだった。
 優太が来てもいないことが多かったため、すれ違ってすれ違って――親に知られて援助がなくなる前に実家に戻った時には、優太の隣には奈々がいた。

「……なんで?」

 掠れた声で、なんとかそれだけ音になった。

 一緒にいたって可笑しくない。だって、幼馴染だから。
 でも、だったらあの目はなに?
 あれは以前、自分に向けれていたものだった。
 ううん、更に増しているかもしれない。

 どんなに疑問を打ち消しても駄目だった。一目見て、すぐに分かった。
 二人が付き合っていることに。
 前から歩いてきた二人が笑いながら話して、私とすれ違っても気づかない。

 そりゃ、前と違って髪を金髪にしたよ。
 肩より長かった髪もばっさりショートにした。いつものように、カラーコンタクトもしてる。
 でも、私は私だよ?
 ずっと付き合っていたのに、どうして分かってくれないの?

 自分の言い分が勝手なのも分かってる。
 今日戻ってくることは言っていなかったし、見た目も変わってる。歌うことに時間をとられて、ぜんぜん会ってなかった。
 でも――

 納得いかなくて、私はその夜、優太の家を訪ねた。
「こんばんは。来ちゃった」という私に、優太は信じられないようなものでも見るような視線を向けた。

「どうしたの?」
「いや……み、球生みおか?」
「他に誰に見える? まあ、見た目はだいぶ変わったかな」
「……そ、そうだな。あ、上がるか? 玄関先でなんだし」
「いいの?」

 優太の家には必要のない、可愛いパンプスがあるよ、と視線を下に向けると、雰囲気だけでも、優太が動揺したのが分かった。
 でも、意地悪くそれに気づかないように、私は話を続けた。

「昼間……優太を見たよ」
「え?」
「奈々と一緒に歩いてた」
「……」
「腕を組んで仲良く……」

 答えない優太に、自分のほうから話を終わらせる。

「付き合ってるんだね、二人。奈々もここに居るんでしょ?」

 私の言葉に、奈々が奥のほうからそっと顔を出した。

「別にとって食おうってわけじゃないんだから、堂々と出てくればいいじゃない」
「球生……わ、私……あの、悪いと思っていたけど……でも、私も……」

 か細い声で奈々が何かを訴える。
 私も、なに? 優太が好きだと、今になって言うの?
 別に人の気持ちを他人が変えることはできない。だから、奈々が優太のことが好きでも、私が口を出せるものじゃないと思っていた。
 でも、どうして優太の気持ちが、自分のほうに向いてから言うの?

 分かってる。これは嫉妬だ。
 そして、自分がいないところで勝手に始めた二人の関係に、一人蚊帳の外にされた疎外感。
 ううん、疎外感というのなら、奈々も同じ思いをしてきたはずだ。
 今更、私がそれに対して文句を言うのは身勝手だ。

「……もういいよ。二人を見てれば分かるから」
「球生……」
「もういいって言ってる! どうせ、何を言っても言い訳しか返ってこないんでしょっ!?」

 それでも、分かっているのと感情は別物だった。
 気づくと二人に対して文句を言い始めていた。それは一度あふれ出すと止まらなかった。

「奈々は、前から好きだったとでも言うんでしょ? 優太はなに? 私がいない間、身近にいた奈々に気持ちが移ったとでも? どんな理由があっても、二人が私に内緒で付き合っていたことには変わらないよっ!」

 こんな、男女の修羅場のようなものを自分が体験するなんて思わなかった。
 自分の性格から程遠いところにあると思っていたから。
 でも、現実は違った。
 奈々は泣きながら謝って、その奈々を守るように優太が奈々を引き寄せる。
 その態度だけでも、明らかに優太が奈々のことを思っているのが分かる。

「球生」
「なに?」

 優太が私に話しかける。

「俺は――」

 話し始めた雄太を、きっと睨みつけると口ごもる。
 でも、結果は変わらない。

「確かに球生の言うとおりだ。どう取り繕おうと、球生を裏切った。今は――奈々が好きなんだ。悪い」
「球生、ごめん、なさっ……」

 優太に続くように奈々が私に謝る。
 唐突に、恋の終わりがきた。
 分かっていても、納得はできない。

「悪いって思ってるんだ。謝るようなことしてるって自覚あるんだ。でも、やめようとは思わなかったんだね」
「それは……」

 私は奈々の気持ちを変えることはできなかった。
 でも、奈々は優太の気持ちを変えた。
 私は……私は何もせずに、変わることがないとどこかで思っていた。そのため自分の生活を優先した。
 その結果がこれだ。

「もういいよ。もう終わりにしよう。こんな話を延々しても意味ないし」

 何もかも面倒くさくなって、乱暴に髪をかき上げながら最後のセリフを口にした。
 優太が慌てて「球生っ!」と叫ぶが、奈々に気持ちが移っているのにどうするつもりなんだと睨み付ける。

「いいよ、もう。あんたとの関係も終わり。幼馴染みとしての仲も終わり」
「球生、それまで……?」
「じゃあ、奈々は自分が私から優太を取ったって分かっているのに、私に向かって笑えるわけ?」
「そっ、それは……」

 奈々の性格から、多分、私に会えば申し訳なさそうな顔をする。
 でも、私にすれば、奈々のそんな顔を見るたびに、今のやり取りを思い出すに違いない。
 そのせいで、過去の楽しい事まで嫌なものにすり替わってしまう。そんなのは嫌だ。
 だからもう、何もかも放り出してしまおう。
 まだ、楽しかった思い出が、嫌なものに塗りつぶされないうちに……

「……じゃあね」

 私は二人の顔をまともに見ずに、別れの言葉を口にした。そのまま玄関の戸を開けて外に出た。
 少しでも早く二人から離れたかった。
 なのに。

「球生!」

 優太が声をかける。

「なに?」

 振り返らずに答える。
 もう二人の姿を見ていたくない。

「その……本当に悪かった。でも……」
「奈々の気持ちが痛いくらい分かって断れなかった? そうして奈々を悪者にするの? 自分の気持ちがしっかりしてたら、流されることはないんじゃない?」

 本当は、優太のこと言えない。
 好きになったのは人じゃなかったけど、歌に入れ込んで優太との関係の優先順位を下げた。
 でも、気持ちは変わらなかったんだよ? 好きなのは優太だけだったのに。
 そう思って振り返ると、優太は居心地悪そうな顔をしながら。

「確かにそうかもしれない。でも、俺は球生みたいに強くない。奈々も……。あいつは俺がいなきゃって思うけど、球生は一人でも大丈夫だから――」

 ああ、確かにそうだけど。
 でも、そんな私のほうがいいって言ったのは、他の誰でもない優太なのに。
 最初は、奈々より私を選んだくせに……
 どこまでも別れ話はどこにでもあるような展開で、心にぽっかり穴を空けたままで、そんなことを考える。
 それでも弱みを見せたくなくて――

「別れの言葉なら、もう少し気の利いた台詞にして欲しかったな。そんな使い古された言葉じゃなくて」

 口から出るのは、強がりな口調と台詞。
 ――珠生は強いから――
 その言葉のせいで、弱音を吐く気になれなかった。

「さよなら、優太。私は自分の選んだ道を行くよ」

 今度こそ本当に別れの言葉を告げ、そして背を向けて歩き出した。
 もう、優太から声がかけられることがなかった。

 私は最後まで、二人に自分の弱さを見せられなかった。
 その日から、心の一部は止まったまま。

 

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