あの夜を境に私の中で何かが変わった……ような気がする。
次の日の朝、目覚めると一人だった。どうやらセランは人が来る前にいなくなっていたらしい。
昨夜、セランは私を抱きしめたままで終わった。それでも体には男性がつける香料がわずかに残っている。その香りを消すために隣の部屋へと向かう。
後宮の女性の部屋には浴室になる小さな部屋がある。いつでも使えるように、裏では使用人が常に湯を沸かしているから、望めばいつでもその湯を流してもらえる。
これは王のほうから女性の部屋に訪れる場合の配慮だった。今は女性が出向くことになっているけれど、身を清めたい時にも使うので今もいつでも使えるようになっている。
侍女も呼ばなければ必要以上に干渉しないようにしているから、自分の部屋にいる時には割りと気が楽なんだけど……セランがあんな風に忍び込んでくるんじゃ、あまり気が抜けないかもしれないわね。
それでもセランとのことは誰にも知られることなく、私はいつも通りに振舞う。
でも、何かが変わっていた。
「シェル様、体調でも優れないのですか?」
用意された朝食を前に、半分くらいで手をつけるのをやめたせいか、侍女――スサナ・クランが心配そうに覗き込む。
そういえば彼女はバレリー候が用意してくれた人物だったわね。そして私の目的を知る人物でもある。
となると、迂闊なことは言わないほうがいい。
「ええ、ちょっと眠れなくて、あまり食欲がないみたい。悪いけどもう下げてくれるかしら?」
素直に応じる振りをして彼女を下がらせようとする。
スサナは少し気に入らなさそうな顔をしたけれど、すぐに食器を片付け始めた。残した料理をまとめると、軽く頭を下げて部屋から出ていった。
「ふう……」
馬鹿みたいだけど、今になってやっと気づいたわ。彼女が監視役だってことに。
多分バレリー候に定期的に報告しているのだろう。休みを取る時が定期的にあるからその時に違いない。
そして、私が目的をどんな形でも行った時、彼女は生き証人になる。
王を殺した犯人が私個人の思惑で行ったと、そして、身分を偽ってここへ来たのだと。バレリー候は利用されただけだと。失敗した時も同じようなことを言うんでしょうね。どちらにしろ私一人で勝手にやったことで、バレリー候はあくまで関係ないと言い張るのだろう。
でも、それだけではバレリー候が関わっていないという理由にするのは弱い。王はすでに疑っているのだし。
……となると、他にも言い訳になるようなものがあるはず……かしら? なら、この部屋にあるものを調べておいたほうがいいかもしれない。それに他にも誰かパレリー候に関わっている人もいそうだし……全く疑いだすと切りがないわ。
それでも、もう引き返すことはできない。迷いながらも前に進むしかない。
***
いつもの通りミセス・ムーアの話を聞くために大部屋へと向かったが、今日は自習だと言われた。ミセス・ムーアの体調が思わしくないとかなんとか。
ここぞとばかりに話し始める彼女たちを、本を見る振りをして横目で見る。
先ほど思い浮んだ仮説を考えれば、この中にもバレリー候の息のかかった者が別の方法で来ている可能性があるのよね。
それが味方か、もしくは同じ目的を持っている者ならいい。でももしそれが私を監視する役目を持つ者だとしたら? 彼女らを証言者にする可能性がある。それでなくても今の私はここで浮いている状態。孤立しているのもそれを気取られないためだったんだ、とか言われそう。
疑心暗鬼に囚われているのは分かっている。でも、人の優しさに触れてしまったせいか、良し悪しを別にしても感情というものが少なからず蘇る。そのために人の行動や感情を見てしまう。
そうすると、今度は自分の思考が分散してしまうのだ。考えがまとまらず無性に苛々して、周りの甲高い声に耐え切れず――
「いい加減にして! ミセス・ムーアが居ないからって騒ぎすぎだわ!」
気づくとテーブルをバンッと叩きながら立ち上がって怒鳴っていた。お喋りに興じていた彼女たちは驚いたのか、口を開いたままこちらを見ている。
……って、ヤバイわ。どうしよう。彼女たちの表情を見て、やっと我に返る。
でもその後、どうしていいのか分からずにいると、静かに私に近づく人がいた。
「シェル様、具合でも悪いの?」
声をかけてくれたのはチェティーネ様だった。どうもあの時以来、少なからず私に対して同情してくれるところがあるらしい。
けれど、私は保身のために、心配そうに覗き込む彼女の良心を利用する。
「すみません。頭が痛くて……つい……」
「それはいけないわ。ミセス・ムーアもいないし、部屋で休まれたほうが良くてよ?」
「そう……ですね。そうさせて頂きます」
「まだきっと風邪気味なのが残っているのね。気をつけてね」
「ありがとうございます。それと……」
ここで私は他の人たちに向かって。
「体調が優れないとはいえ、八つ当たりをしてすみませんでした」
と軽く頭を下げる。
それを見て彼女たちは文句を言うことはなかった。チェティーネ様に倣うかのように口々に「お大事にね」「無理しないほうがいいわ」など、こちらを労わる言葉を口にする。
さすがに王の寵姫が味方してくれると、周りもそれ以上言いにくいのだろう。
もう一度頭を下げて大部屋を後にした。
***
それにしても失敗しちゃったわ。今まで大人しくしていたから、いくら調子が悪いのを理由にしても少し無理がある気がするし。
本当に、あの中にバレリー候に繋がる人物がいたらどうしよう。
一度考え出すと、まるで迷路に迷い込んでしまったように同じことばかり考える。そして出口がなかなか見当たらなくて、堂々巡りになる。少し横になって頭を空っぽにしたほうがいいかもしれない。
「シェル様」
ため息をついて部屋へ戻ろうとすると、後ろから聞いた声がする。
振り向いて確認して、それから。
「こんにちは、ミセス・マレコット。ルイス様がお呼びなの?」
「はい、シェル様」
「分かったわ。行きましょう」
ミセス・マレコットの登場で、私はすぐさま寝て頭を冷やすことから、楽しい話でもして気を楽にすることを選んだ。
ルイス様の部屋に行くまでの間、ミセス・マレコットと日常会話をしながら歩いていく。彼女もかなり気を許してくれたみたいで、敬語ではあるものの、私の話に合わせてくれた。
ルイス様の部屋に入ると笑顔で出迎えてくれて、すでにお茶とお菓子を用意してある席へと誘われる。素直に従って座ると、嬉しそうに話しだした。本当にルイス様は誰かと話をするのが嬉しいみたい。
邪気のない笑顔を向けられると、つられて同じように笑ってしまう。
それにしてもルイス様やミセス・マレコット――本来なら出会わなかっただろう二人が、この中で一番気を遣わないで話せるなんて変な話ね。
ルイス様なんて私がやろうとしていることを知ったら、決してこんな風に笑ってくださらないでしょうに。
……そうよ、この楽しい会話だってほんの少しの間だけなんだわ……
そう思った途端、目が熱くなって、頬に涙が伝って落ちていく。止めようと思っても止まらず、ただ呆然と涙だけが流れていった。
すると、ふわりとルイス様が優しく抱きしめてくれる。
「泣きたいときは泣いてしまった方がいいのよ」
「るい……す、さま?」
「理由は聞かないわ。でも泣きたいなら泣きなさい。そのほうがすっきりするものよ」
そういってルイス様は、まるで母親のように抱きしめて頭を撫でてくれた。
限界だったのかもしれない。家族が亡くなった時には悔しさの方が強くて、悲しんで泣くというような感じではなかった。それから先は復讐のために泣くことより強くなることを望んだ。
考えてみれば、家族を亡くしてから泣いたことなんてなかったんだわ。
「ふっ……あ……ぅぁああああっ」
気づくと止まらなかった。ルイス様にしがみついて、声を出して泣いた。まるで子供が大泣きしているみたいに。
でもそんな私をルイス様は何も言わずに優しく抱きしめていてくれた。