第3話 霞んだ世界で待つ人

 マリアベールは自分の意志を無視されたまま、天界へと嫁ぐことになった。
 姉であるクレアトールとも地界の使者から受け取った小瓶を飲み干した後、そのまま気を失ってしまい、話も出来ないままで。
 使者の話では、薬は闇に対する抵抗力を高めるものだという。
 その薬は体の弱いクレアトールにとっては強すぎて、数日寝込むことになってしまった。けれど、その後は丈夫な体になるから問題ないと諭された。
 その間に着々と婚儀の準備は進められ、気づくとクレアトールと一言も話をできないまま天界へと嫁ぐ日になっていた。

 

 ***

 

 謁見の間で両親に挨拶に行くと、そこには国の重臣たちも揃っていた。何度も見慣れた光景だったが、今日で最後と思うともの哀しい気持ちになる。
 口々に自分を見て綺麗だのと賞賛の声を送ってくるが、そんなものは耳に入っていなかった。
 せっかく綺麗に着飾ったのに表情が優れない。いや、彼女にしてみると別に着飾りたくもなかった。
 嫁ぐためになど。
 王家に生まれてきた以上、どこかに政略結婚として嫁ぐのは当たり前なのだろうが、その時がこんなに早く来るとは思わなかった。彼女はまだ十五なのだ。
 それに、大好きな姉――クレアトールの顔を見れないまま嫁ぐなど、出来ればしたくない。

(お姉さま……他の誰よりもお姉さまに見てもらいたかったのに……)

 自然に舌唇を軽くかんで、姉の名を言いたくなるのを堪えた。口の中にかすかに血の味が広がっていく。
 けれど口紅をつけたその顔からは、気づく者はいなかった。

「これはまた美しくなられましたな。姫君」

 使者の声に、俯いていた顔を少しだけ上げる。
 姉と自分の居場所を決定的にした――言ってしまえば、彼女にとっては憎らしい人物の声。
 彼も仕事なのだからしかないのだろうが、彼が来なければ、まだこの箱庭のような小さな世界で幸せに暮せていただろうと思うと憎らしかった。
 けれど、それを悟られたくないような気がして、マリアベールは顔をあげて使者を見つめた。

「使者の方には、大変お待たせいたしました」
「いえ、貴女のような方をお迎えする役を担った私は幸せ者でございます」
「それはありがとうございます」
「ただ、残念なことは、姉君であるクレアトール様のお姿を拝見できないことでしょうか――」

 使者のその声は、マリアベールにとって挑発的に聞こえた。
 クレアトールが地界に、マリアベールが天界に嫁ぐと決まった後で聞かされたことなのだが、次代の“ミカエル”は今年で二十四歳だという。反対に“ルシファー”は十六歳。
 どう考えても、クレアトールが天界に、そして自分は地界へ行くべきだったと皆が思った。
 だから使者がわざわざクレアトールの名を出したのは、まだ年端のいかない少女が天界の主である“ミカエル”に嫁ぐのが気に入らないのだと言われているようだった。

「そうですね、わたくしも姉の顔を見ることができず残念です。ただ――」
「ただ?」
「せっかくの慶事を私事で遅らせるわけにはいかないでしょう。ミカエル様のお心遣い如何ではこれからも姉に逢うことも可能でしょうし」

 自分で立たなければ――と、この時マリアベールは強く思った。
 天界というここより一段高い人たちに呑まれてはいけない。天界では誰も守ってはくれないのだ。
 優しい両親も、かわいくて生意気弟も。マリアベールの気持ちを一番理解してくれた優しい姉もいない。

「なるほど。姫君の仰る通りですな。“ミカエル”様はお優しい方。貴女の願いも聞き届けてもらえるでしょう」
「次代の“ミカエル”様はお優しい方なのですのね」
「ええ」

 使者に“優しい”と評される“ミカエル”。
 それならば、少しは期待できるかもしれない。そんな思いを抱きながら、マリアベールは使者の手をとった。
 この世界を支える柱は淡く発光している。そこに存在しているような、または光の塊のようなものなのか、遠方から見るとよく分からないが、側に行き触れるとその光の中に入ることができる。
 もちろん入れるからといって、他の界に簡単に行けるわけではない。ここに戻るのも“ミカエル”の許可が必要になる。
 だから彼らを怒らせるのは得策ではないと判断した。

「それでは天界まで案内をお願いしますわ」
「かしこまりました」

 使者は優雅にお辞儀をする。
 内心はどうあれ、彼はマリアベールを天界に導く役を担っている。そこに私情を持ち込むことはなかった。
 そして、マリアベールもまた、これから私情を出すことを抑えなければならない立場になることを悟った。
 次にこの地に戻れるのがいつかは分からない。けれど、使者にそんなことは聞けないし、弱気になっていると思われたくなかった。
 そう思うと、この輿入れが決まってから何度も口にした言葉をまた繰り返す。

「では、お父さま、お母さま、短い間でしたがお世話になりました。レオナール、あなたも元気で――」

 彼女は家族に向かって一言だけ告げると、使者について柱の中に入っていった。

 

 ***

 

 柱の中に入った後はよく覚えていなかった。眩しくて目を開けられないほどだ。射すような強い光に反射的に目を瞑る。光が和らいだので目を開けると、そこには白く霞んだ世界が広がっていた。
 はっきりとした視界の人界と違う。霞んで、どこが果てなのかわからない。
 地面さえもふわふわとした感触で、もと居た所とは余りにも違う感じがした。

「ここが、天界……?」

 マリアベールは知らずに呟いていた。
 世界の構造は話に聞いていたけれど、それぞれの世界がどうなっているのかは知らないのだ。
 大祭で“ミカエル”と“ルシファー”が訪れるが、彼らと直接話はできない。他の世界がある、ということは知っているが、そこがどんな場所かを知る者はほとんどいなかったのだ。
 そんな他の世界を今、彼女は初めて目にした。

「そうです。ここが我ら天界人が住む場所。貴女方の世界を光から守っている所でもあります」
「光から、守る?」

 光と聞けばいい単語を思いつくほうが多いだろう。それだけ光とはいい言葉だと思っていた。
 けれど違うのだろうか、とマリアベールは首を傾げた。

「いくら良いものでも、それが強ければ劇薬になります。人界における薬でもそういうものがあるでしょう?」
「え、ええ」
「それと同じです。光がなければ人は生活していけない。けれど、この上にある“光”に直接当たった場合、それは強すぎて人には毒になってしまうのです」
「……知らなかったわ」

 思わぬ話につい言葉遣いが普段の調子に戻ってしまう。その様子に使者は軽い笑みを浮かべた。

「ここの支配者であられるミカエル様は、光を遮る役目を担うのです。人界にとって丁度いい位の量に。それが結果として天界という世界を作っているのですよ」
「そう、なの?」

 確かに眩しすぎる上空を見ながら、マリアベールは呟くように答える。
 でも強すぎる光というのなら、人の身である自分はどうなるのか――気になっていると、使者はそれに気づいたかのように。

「はい。そして他の者はその補佐になります。天界はそのためにあるといっていいでしょう。ああ、貴女は大丈夫ですよ。もともと柱の国はこの光に近いので、ある程度耐性を持ったものが多いのです。全く気にならないでしょう?」
「ええ。ただ明るいというか……霞んでいるようにしか見えません」
「柱の国の王族の方はそのような方が多いのです。ですからこのような縁談があるのですよ」
「そうなんですか」

 初めて聞いた話に感心するマリアベールに、使者は笑みを返す。
 そして使者は意外に好意的な態度で接していたことに、マリアベールはやっと気づく。

(お姉さまじゃないから嫌がれているのかと思ってたけど……そんなに嫌がられていないのかしら?)

 考え込んで俯いていた顔を上げると、示された方向に一人の男性が立っていた。

「み、ミカエル様! このような場にお出になるなど!」
「そうは言っても、ここに危険なんてありませんよ。それよりも人界から一人で来てくださった彼女に一刻も早くお会いしたかったのです」
「ミカエル様。ですが供も連れず……」
「だからここには危険は何もありませんよ?」

 優しい笑みを浮かべる青年ははしばみ色の髪を揺らした。
 ミカエルと呼ばれたのだから、彼が次代のミカエルなのだろう。優しい雰囲気に、マリアベールは夫というより兄のように思えた。

「あの……」
「ようこそおいで下さいました。新しく“ミカエル”の任に就いた者です」
「あの、マリアベールと申します。ミカエル様」

 声をかけられてドキドキしながら挨拶を返す。
 彼女を見下ろす視線は優しくて、人界で決意した思いは溶けて消えてしまいそうになった。

「この度は急なことで申し訳ありませんでした」
「いえ……」
「どうぞ、私のことはユリアとお呼びください」
「ユリア、様?」
「ええ、本来の私の名です」

 ユリア――それが彼の名。
 確かに任に就く前は名前がある。ただし、任に就いた後、その名で呼ばれることはなくなる。

「貴女の前では“ミカエル”ではなく、ただの“ユリア”でいたいのです」
「は……い。ユリア様」
「ありがとう」

 ミカエル――ユリアがどうしてそのようなことを言うのかは分らなかった。
 でも、嘘をついているようには見えず、マリアベールは素直に頷いたのだった。

 

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