暮れ行く外を眺めていると、いつの間にか室内は暗闇に満ちていた。それが嫌で慌てて燭台についている蝋燭に火をつけて室内を照らす。
暗い所は嫌い。見たくないものを思い出させるから。
だから、室内に灯った明かりを見てほっと一息つく。
それと同時に扉を叩く音が聞こえた。
「はっ、はい」
慌てて扉に向かい静かに開けると、そこにはミセス・ムーアが立っていた。
「ミセス・ムーア、何かご用でしょうか?」
「ええ、陛下からのお召しがありました。光栄に思いなさい、シェル・パリュール」
「お召し……」
要するに夜伽の相手に選ばれたということ。
でも、何故かしら。待ち望んでいた時なのに、酷く気が重く感じる。
「シェル・パリュール?」
「あの……」
『はい』の一言が言えず口ごもる。
どうしよう、こんな気持ちではいけないのに。
「どうしたのですか?」
「あの……申し訳ございません。今日は遠慮してもよろしいでしょうか?」
「何を言うのです? 陛下に逆らうというのですか!?」
「いえ、違います。その、ただ……」
「ただ?」
今の私では駄目。不安定な心のままでは失敗する。
とにかく今日は断る口実を考えなければ、と思い、しばらくしてから。
「少し……風に当たりすぎたのだと思います。喉に痛みが……」
「まあ、あなたはここにいるという自覚が足りないのではありませんか?」
「申し訳ありません。でも、もし風邪など陛下にお移ししたらと思うと……できれば他の方――陛下のことを一番ご理解しているチェティーネ様にお願いしてもよろしいでしょうか?」
それらしく喉を押さえて、考えながらだったせいか、口調は少したどたどしく、それが逆に本当らしさを演出していたようだ。
もちろんチェティーネ様の名前の効果もあるんだろうけれど。
「まあまあ、その心がけは大事ですよ。それなら私の方からチェティーネ様にお願いしておきましょう。陛下へのお心遣いもお伝えしておきましょうね」
「ありがとうございます」
「早く体調を治しなさい。せっかく陛下がお声をかけてくださったのですからね」
「はい、ミセス・ムーアの心遣いに感謝いたします」
ミセス・ムーアお気に入りのチェティーネ様を推薦したせいか、すぐに話はまとまった。
ご機嫌な顔をして戻っていく彼女を見ながら、私は深いため息を一つついて、それからゆっくりと扉を閉めた。
セランの言った仮定話――要するに王暗殺が私の目的だった。そのためにここに来たと言っていい。
けれど、それをするためには決して悟られてはいけない。落ち着かない心のまま、王の前に出ても見透かされるだけだ。
それなのに、ここへきて初めての好機と初めての動揺――それが重なってしまった。
次にいつ呼ばれるのか分からないのに、どうしてその前にこんな気持ちになってしまったのかしら? 待っていれば、王は適当な時に私を呼ぶつもりだったのだ。
だから、セランに何も聞かず、ただ自分の成すべきことだけを考えていれば良かったのに。
『思っているより人を殺すってのは常人にとって難しい。相当な勇気と覚悟が必要になる。イカれていれば別だがな』
あの人の言葉が蘇る。
ええ、そうね。ほんの少しの動揺だけで、こうも揺れてしまう。
そして私の場合、失敗したら次はないと思うと、慎重に慎重を重ねても足りないくらいの細心の注意が必要だから。
目を瞑ると、どんな時にも余裕を失わないあの人の顔が浮かぶ。
「本当に、あなたの言うように思うとおりにいかないものなのね、トール……」
***
次の日は昨日言ったことが嘘だと思われないように、喉元が隠れるようなハイネックの少し厚手の布地のドレスを選んだ。
昼過ぎにはミセス・ムーアの教育とやらがあるため、昼頃には部屋から出る。嫌だけど真面目に行くのは、部屋でじっとしていると気が滅入るのもあったから。
暗い気持ちでいつもの部屋の扉に手をかけると、すぐにチェティーネ様に声をかけられた。
「シェル様、少しよろしいからしら?」
「……はい、チェティーネ様。なんでしょうか?」
「昨日はありがとうと言ったほうがいいような気がして。せっかく陛下からお召しがあったのだから、無理をしてでも行くと思っていたわ。けれど体調が悪いからと、私を薦めてくれるとは思わなかったの」
「いえ、当然のことをしたまでです」
「そう、あなたが謙虚な人で良かったわ」
チェティーネ様はふわりと柔らかい笑みを浮かべると、言いたいことは言ったのか、私の前から去っていった。
どうやら昨日断ったことがまったく無駄だったわけではないらしい。チェティーネ様以下、取り巻きの令嬢たちの私を見る目が少しだけ和らいでいる。
これで少しはここでの居心地も良くなるかしら、と思いつつ、面白くもないミセス・ムーアの話を適当に聞き流した。
ミセス・ムーアの話もそれほど長くはない。私たちはここから出られないのだから、彼女はゆっくりとここでのことを教えていけばいいし、また新しい令嬢が入ってくれば同じようなことを繰り返さなければならない。
だから彼女は私たちを飽きさせないよう、あまり長くは話さない。しばらく我慢していればいい。
そしてその時間も終わり、風邪気味という状況なので早々に部屋に戻ろうとした。
「シェル様、ですね?」
唐突に声がかかる。
「はい、そうですが」
声をかけてきたのは後宮にいる貴族の娘ではなかった。
侍女などが着る控えめなドレスに、落ち着いた雰囲気の女性。
誰かしら? 見たことないけど――
「ある方がお待ちです。こちらへいらしてくださいませ」
「ある方?」
「はい、今ここではそうとしか申せません」
「それを信じてついて来いというの?」
「ええ、左様でございます」
頭が固いというか職務に忠実というか、彼女は誰からの依頼なのかまったく説明しない。
昨日はセラン、今日はいったい誰なのかしら?
どちらにしろ付いていくしかなさそうだと思わせるほど、彼女は私の部屋までしつこく付いてきそうだった。
「分かったわ、案内して頂戴」
「かしこまりました。ではこちらへ」
仕方なくそう返すと、彼女の方もほっとした表情で、すぐに返事をして戻ろうとしていた方向とは別の方向に手を向ける。そちらを振り向けば、彼女はすぐに歩き出した。
どうやら、余りこの光景を見られたくないのだろうか、そんな疑問が浮かぶ。試しに少し歩を早めると、やはり彼女も早くなる。やはりあまり人に見られたくないようだ。
相手にどんな思惑があっての行動か分からないけれど、もしそれが私にとっても不利益になるのなら、誰かに見れらるのは得策ではない、と判断する。
そのままの速さで付いていき、しばらくしてからふと気づく。
「あの……こちらへは来ていけないとミセス・ムーアから言われているのですが」
そう、向かった場所は西。
セランの言う通りなら、彼のお母様――王の母親でもある――のところになる。
「はい、太后様がシェル様をお呼びなのです」
「……なぜ、太后様が私を?」
「それは、私のようなものには分かりかねます。私はただ、シェル様をお呼びするよう仰せつかっているだけですので」
「そう……」
結局、行かなければ何も分からないということね。
そういえば、ここに来てからもう二ヶ月以上も経っているのよね。本当なら私は自分のするべきことをすでに終えているはずだったのに。なんだか後宮へ来てから予定が狂ってばかりだわ。
なかなか王に呼ばれなくて、その機会に恵まれず、逆に王弟であるセランの方が近いなんて――自虐めいたことを考えていると、彼女が「こちらです」と一言だけ短く言う。
そして扉を三回叩いてから、中の人の了承も得ずに勝手に開けた。
様子からして、太后様付きの侍女というところかしら。しかも、相当なお気に入りだわ。
「シェル様をお呼び致しました」
「ああ、ありがとな」
「それでは失礼致します」
この声……とっても覚えがあるわ。今は聞いただけでムカムカとしてくるのは気のせいかしら。
いいえ、別におかしくはないわね。だって私の計画を台無しにしてくれた張本人ですもの。
だから堪えきれず。
「どうしてあなたに呼び出されなければならないの!?」
「まーまー、ってか、母上もいるってこと忘れないで欲しいんだけど?」
「え、母上……?」
セランの母上って王の母でもあって、太后でもある――
「なっなんで、そういうことを先に言わないのよ!」
「言う前に騒いだのはそっち。それより紹介するからもっと中入れよ」
気づくとセランは背中に手を回して私を奥へと連れて行く。
ちょっと待ってよ、いったい何がどうなっているの? これ以上私を混乱させないでよ――と思うのに、セランはそれを許さない。
「母上、連れてきたよ」
「まあまあ、貴女がセランが好きな方なのね?」
「は、い……?」
意外な言葉にまともな返事もできない。
目上の人に対する接し方では、マイナス評価をされても仕方ないほど失礼な行為だ。
目を見開いてセランを見ると、彼はニヤっとなにかを企んでいるような笑みを浮かべながら。
「母上、母上、いきなりそんなことを言うから、シェルが驚いて挨拶できないじゃないですか」
「まあまあ、それはごめんなさい。では……私はルイス・ファベルジェ。この馬鹿息子の母親です」
馬鹿息子……さすが母。面と向かってさらりと言ってのけるのはある意味すごい。
しかもその間、にこにこと笑みを絶やさない。笑顔が完璧なほど、セランの過去の素行が窺い知れるのは気のせいかしらね。しかも、セランってばさりげなく視線を逸らしているし。
とはいえ、名乗られた以上こちらも挨拶をしなければならない。
「太后様にはお初にお目にかかります。シェル・パリュールと申します」
スカートをつまんで広げて軽くひざを折り丁寧な挨拶をする。
「そんなに畏まらなくてもいいわ。私が無理やり呼んだんですもの」
「ですが」
「私のことは太后などと大げさに言わずに、ルイスとでも呼んで頂戴ね」
いくら太后からの申し出でも、さすがにそれはちょっと……私でも躊躇うわ。
でも絶対優しそうだけれど、押しは強そう。断れなそうだと判断して、仕方なく頷いた。
「なら、ルイス様と呼ばせていただきます」
「ええ、よろしくね。シェル」
おお、呼び捨て。
まあ、太后様ですものね。仕方ないか。
とりあえずそんな感想は顔に出さないように努めて。
「こちらこそ、お招きありがとうございます」
「ささ、こちらへ座って。セラン、あなたはぼさっと立ってないでお茶でも淹れて頂戴」
「俺が……ですか?」
「ええそうよ。女性の語らいに男性は邪魔よ。さっさと行きなさい」
太后は手を振ってさっさと行けとセランに合図する。
なんのために呼ばれたのかは知らないので、私は二人のやり取りを見ているしかなかった。