第02話 異世界キト(4)

 エラトたちを帰すと、先程の神官が心配そうに優花に尋ねる。

「あれでよろしかったんでしょうか?」
「分からないけど……でも嬉しくないのに『おめでとう』って言われても嬉しいと思う?」
「それは……。でも、神官長様にはどう言えば……」

 神官長という単語に優花はうっ、と詰まる。
 苦手、なのだ。あの仏頂面の唯我独尊の道を行く彼が。しかも仕事では一切手を抜かないのか、優花にも完璧を求める。
 おかげで、いつも彼が側にいると、極度の緊張状態を強いられる羽目になる。
 一応無理だの言い返すものの、ほとんど聞く耳もたずといった感じで、出来れば会いたくない人ナンバーワンの人だった。
 しかし、自分のしたことで他の神官に嫌な役を押し付けることもできない。数秒考えた後、優花はため息をつきながら。

「いいよ、それはわたしが言うから……」

 力なく答える優花に反して、災難から逃れた神官は笑顔で「お願いします」と答えて、すぐに優花のそばから姿を消した。
 さてどうやって報告しようか、と考えようとした時に、思いきり扉が開いた。戸に手をかけている人物は問題の神官長で、しかもかなり怒ってます、というオーラが漂っている。
 優花は心臓が止まるような錯覚を覚え、胸に手をあてた。

「あなたは……何を考えているんですか!」

 どうやら先程の話は報告せずともファーディナンドの耳に届いたようだ。
 地獄耳なのか、それともエラトの親が文句を言っていたのを誰かが報告したのか。それは不明だったが、優花が報告することはなくなった。
 というより、報告をすっ飛ばしてお説教タイムらしい。

「いいですか、ここは人の希望でもあり、また訪れた人を追い返すようなことをしてはいけないと、私はあなたに言ってありましたね?」
「はあ、一応……」
「あなたの頭は、そんなことさえも忘れるくらい使いものにならないんですか!?」

 ファーディナンドの言いように優花はカチンとくる。
 確かに自分の頭は性能良くできていないことは事実だが、人の道を踏み外すような真似はしたくないと思ったからの行動だったのに。

「じゃあ言いますけど、したくない結婚を強要されて、それで神様って言われる人に『おめでとう』なんて言われて、本っ当に嬉しいですか!?」
「人の事情などどうでもいいのです。あの方たちは結婚の祝福をもらいに来た。あなたはそれに返す。ただそれだけでいいのです。彼らの事情などを考慮する必要など何もないのです」

 確かに事務的にこなすなら、人様の事情など関係ない。
 でも、どうしてもそれが出来なかった。彼らを目の前にすると。だから。

「確かに来た人たち全ての事情に対応するなんてこと、無理だって分かってます。でもあそこまであからさまに顔に出てるのに、素知らぬ顔で祝福の言葉なんて言えるわけないじゃないですか!」

 目の前のファーディナンドならやってのけそうだが、自分には出来ない。だから事情を聞いた――それが優花が考えた結果の行動だった。それを頭から否定されて、優花は堪忍袋の緒が切れる音を聞いたような気がした。
 前の神のようなことを求められても困るのだ。いい加減そのあたりをこの堅物に理解してもらわなければ――と優花は決意する。
 頑張れ、自分! と心の中で応援した。

「大体、なんの力もないわたしが偉そうに祝福したって誰も幸せになんかなれるわけないじゃないですか! いい加減現状くらい把握してください! 何度言えば分かるんですか!?」
「ええ、私だって現状くらい嫌というほど分かっています! あなたがなんの力もなく役に立たないことも、何度言っても言うことを聞かないことも!」

 珍しく激怒しているファーディナンドに優花のほうが驚く。
 同時に怒っているその姿を見て、反対に少し感情が落ち着いてきた。

(それにしても、こういうファーディナンドさん珍しいよね。最初の頃なんて能面みたいな感じだったのに……)

 それほど、ファーディナンドには表情というものがなく、ただ仕事をこなすだけの人だった。ただし、やることには完璧さを求めるという、困った人だった。

「聞いているのですか!? あなたは『聞く』ということさえも出来ないんですか!」
「え……? あ、一応聞いてますけど?」
「ここまで言われてまだそんなことを言いますか? でも言ったことさえ出来ないのなら、居る意味もありませんがね」

 落ち着いてきたと怒りが、また徐々に増えていく。
 そしてプチンと何かが切れる音がした気がした。

「そうですね、わたしがいる意味なんてないですね。なら、わたしはこれで神という立場から下ろさせてもらいます! 役立たずで済みませんでしたっ!」

 啖呵を切って部屋を後にした。後はそのまま何も考えずに建物の中から飛び出した。
 とにかく少しでも早くここから出たかった。
 人を呼びつけておいて、そのくせ役立たずだのなんだの言う。
 悔しくて悔しくて、泣きだしそうになるのを堪えながら早足で宮を出た。

 

 ***

 

「そりゃね、わたしは運動神経はあまり良くないけど、こっちでは重力が軽いせいか前より良くなってる……と思ったんだよ。それに方向音痴って言われたことはなかったはずなんだけど……」

 気づくと右も左も分からない、そんな状態で鬱蒼とした森の中で立ち竦んでいた。
 清水鏡宮は森に囲まれて、人の手が入っていない場所にある。そして一番近い町まで一本道。
 なぜ迷ったのかは、勢いよく走りぬけていく一台の馬車のせいだ。
 轢かれないために避けようとしたら、道と森との境に段差があって、あ、と思った瞬間、転がっていた。そして周囲を見回すと、空が見えないほど茂った木々の合間にいたというわけだ。
 落ちたところから戻ろうとしたが、そこは苔むしていているせいか、手をかけてよじ登るために体重をかけると苔がとれて登れなかった。
 そのため少し迂回して道に出ようとしたのだが、気づくと迷っていた。
 まだ明るいはずなのに、木の枝が影を作り薄暗い状態。足元は雑草がこれでもかと思うほど生えていて、足元を何度も取られそうになった。そのたびに薄い衣は裂けていく。足を取られて転んだのも、何度目だろうか。
 足の痛みに、歩くのをやめて立ち止まった。

「はあはあ……ちょっと失敗、だったかな。って、もうこの服って動きづらいよ!」

 太い木に手をおいて荒い息を整える。宮から出てここまで一気に走ってきたのだが、このまま走りきる自信はなく、一息つくことにした。

「のど渇いたー……少しはなんか持ってくれば良かったー……」

 早く道に出れば歩きやすくなるのだろうが、裂けた巫女の衣装を見ると、出ていくのをどうしようかと躊躇してしまう。人とばったり会ったら、誤解を招きそうな格好なので、仕方なくそのまま森を歩きはじめた。
 せめて水を飲みたいと思い、湖に出れないかと歩き回ったのが悪かった。更に自分がどこにいるのか分らなくなり、道も、宮に戻る方向さえ分からなくなってしまった。

「これからどうしよう……」

 計画も立てずに逃亡を企てたことに少し後悔する。
 でもあのままいたら完璧な逃亡計画を立て終わる前に、自分の神経のほうがおかしくなってしまいそうだ。

「やっぱり無理だよねぇ。だってなんの取り柄もないんだよ。神様なんて“フリ”だって出来るわけないよ。せめて顔が綺麗とか、カリスマなんかあるような人ならいいんだろうけど……。わたしみたいに子供に間違えられるようなのじゃ、神様なんて思われないよ。威厳なんてなんにもないじゃん。いくら偽物でも無理があるよぉ……」

 魔物がいて危険な世界だというのは聞いている。それが不安を募らせて、さらに悪くしているというのも。だから神が心の拠り所なのだとも。
 そんな状態なのに、神様がいなくなってしまったのは気の毒だと思う。
 でも、自分がその代わりができるとは微塵にも思わない。

「力がないのがばれちゃったら、もっと大変だと思うけどなぁ。騙したのか、とか絶望だけじゃなくて怒りとかも出てきそうだし……」

 絶望も怒りも負の感情。それらは魔物に力を与えるだけだろう。
 せめて頭がもう少し良かったら、少しはこの世界が良くなるような案も出せたかもしれない。でも優花にはそれも無理だった。

「やっぱりわたしはどこかにいなくなって、他の似合いそうな人を探したほうがいいんだよね。うんうん」

 いなくなれば諦めて別の人を探すだろう。そう思い込んでから、今はこの森を出ることだけを考えるようにした。
 森の中はどこかに生き物がいるのだろう。あちこちで小さな音が聞こえる。音がするたびにビクッと体が震えた。急に魔物の存在を思い出したからだ。
 もし魔物に見つかったらどうなるのか――それは分からないが、少なくとも優花には戦えるような武器も運動神経もない。逃げるにしても逃げ切れるかどうか――考えるだけに恐ろしい。
 不安に思うとそういったものを呼び込むのかもしれない。急に背後でガサリという音がする。
 恐る恐る振り向けば、そこには二メートル以上ありそうな二足で立つ獣――そう、まるで雪男のように毛むくじゃらで大きなものがすぐ近くにいた。

「ちょ……うそ……っ!?」

 はじめて見る魔物に体が硬直した。
 低いうなり声とともに、どしりと一歩踏み出されて我に返る。

「にににに、逃げなきゃ……」

 走れ、逃げるんだ、そう言い聞かせながら、相手を刺激しないようにゆっくりと静かに動き始める。早くしなければ捕まって殺されてしまう。
 ある程度距離をとると、あとは後ろも見ずに走った。追いかけられているかも、すぐ近くまで追いつかれているかも、と思うとものすごく怖い。
 それでも確認のために、しばらくしてから振り向こうとした瞬間、地面から出ていた木の根に足を取られた。
 バランスを崩した先は、不幸にも崖になっていて、やばいと思った瞬間には体が宙に浮いていた。
 うわっ、と思った瞬間、次は激痛が体を襲う。
 打ち付けたのはどうやら右肩が主だったようで、気づいた時にはその打ち付けた右肩を下に横たわっていた。
 痛む体を動かして何とか仰向けの状態にする。はあはあと荒い息を繰り返しながら上を見れば魔物の姿はなく、優花は少しだけ安堵した。

 

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