03 「もっと私を褒めてもいいだろう」「不可能です」

 それはリナが入社して二ヶ月経った頃の話だ。
 リナはいつものように出社すると、ロッカーに私物を放り込んで給湯室に向かった。
 この時間は給湯室にはすでに人がいる。社長であるガウリイと同期――要するに一緒に会社を立ち上げた仲間である――ミリーナという女性。彼女はリナに色々と教えてくれる大事な人だ。

「おはようございます」
「おはようごうざいます。リナさん」
「ミリーナっていつも早いのね」
「そんなことないですよ。リナさんより少しだけ早いだけです」

 おかしなものだが、リナはミリーナに向かって普通に話し、ミリーナはリナに対してさん付けで返す。
 本当なら先輩と後輩という立場から逆の話し方になりそうなのだが、二人の性格からそうはならなかった。

「ねえ、一度でいいからあたしのことを名前で呼んでよ」
「呼んでるじゃないですか。『リナさん』って」
「だからさん付けじゃなくて」

 話をしていると、火にかけていたヤカンがピーという音を立てて湯が沸いたことを知らせる。ミリーナは話すのをやめて火を止めた。
 すでに茶葉が用意されているティーポットとカップに、まずはカップを温める湯を注いだ。それから次はティーポットにゆっくり湯を注いでいく。蓋を閉める寸前紅茶の香りがふわっと周囲に漂った。

「今日の、アールグレイね」
「ええ。香りがきついほうがいいと思いまして」
「どうして?」
「リナさん、ご存知じゃなかったんですか?」
「何を?」

 ミリーナは紅茶をティーポットの中で蒸らしながら、カップに入った湯をこぼして残った露を布巾でさっとふき取りきれいにする。
 その間リナはすることなくて、ミリーナの横に立っていた。けれど、ミリーナの言った意味が分からない。ミリーナは意外そうな顔をしてから、リナに説明を始めた。

「昨日仕事が終わってからちょっとしたトラブルがあったんです」
「え? でもあたしそんなこと……」
「多分、リナさんが帰った後だったんで、連絡しなかったんじゃないかと」
「でも……」

 連絡くらい来てもおかしくないはずなのに――と、リナは不満を感じて納得できない。

「リナさん、ここ一週間くらい忙しかったでしょう?」
「まあ、確かに忙しかったけど……」
「一度、終電間近で帰った時もあったみたいですし。昨日は早く帰れたから、そういう連絡をしたくなかったんだと思いますよ。リナさんのことだから、会社に戻ってきそうだと判断したんじゃないでしょうか」

 ミリーナの話では、リナが帰って一時間もしないうちにトラブルが起こったらしい。
 納期と生産が合わないということだったらしいが、J.F.カンパニーにとって一番の取引先だったため、社長であるガウリイ自ら謝罪しに行ったという。
 本来なら社長秘書であるリナも同行しなければならない話だ。

「そんなことが……」
「ええ。結局は相手側が納期を勘違いしていたらしいんですけど」
「え? うちの問題じゃなくて?」

 社長であるガウリイ自ら出向いたと聞いたので、てっきりこちらが悪いと思っていたのだが――どうやら違うようだ。

「ええ。納期を早めたかったらしくて、それをうちに連絡したものだとばかり思っていたらしいですよ。社長とゼルガディスさんが相手の会社を訪問して話をしていったら、そんな経緯だったとか」
「ちょ……それだとうちって謝り損?」
「まあ、そういうことになりますけど……相手側もきちんと謝罪してくださって、二時くらいにはお二人とも帰ってこられて」
「にじ!?」

 リナは二時という時間に眩暈がした。
 いくら残業していても、午前様になったことは一度もない。リナが有能だからというのもあったが、ガウリイが帰りの時間を気にしてくれるのも一因だ。
 とくに昨日は早く終わって、九時にはもう家でのんびりしていた。二時なんて時間はもう夢の中だ。

「ええ。それから事後処理をして……先ほど私が来た時に眠そうな顔で歩いているのを見たので、多分そのまま会社に泊まってしまったんじゃないかと」
「うそ……」
「なので、香りがきつくて眠気覚ましになりそうなものを選んだんです。社長はコーヒーは飲みませんから」

 ミリーナはそう答えると、紅茶をカップに注いだ。赤い液体が白いカップを満たしていく。その様子を見ながら、リナはなんとなく悔しくなった。ミリーナはガウリイたちと同期で新米秘書のリナより会社のことに対して詳しいのは分かる。
 でも、秘書が知らないでいる、というのは納得できない。まるで自分など要らなくても構わない、と言われた気がして。

「リナさん、申し訳ないですが、これを社長にお願いできますか? 私のほうは他の方のお茶を淹れないといけませんので」
「あ、ええ。分かったわ」

 リナは釈然としない気持ちでミリーナからトレイを受け取った。
 ミリーナはリナが受け取ると微笑む。本当なら、リナは何も知らない振りをして出社することも出来るはずだが、ミリーナはリナの蟠りを感じたのだろう。こうしてガウリイを話をする機会を作ってくれた。

(……ったく、たまに頑張るかと思えば人に連絡もなく勝手するんだから!)

 トレイを持ってリナは社長室に向かった。

 

 ***

 

 ノックをして社長室の扉に手をかけるが返事はない。
 けれどリナはそのまま扉を開けて中に入った。

「失礼します」

 扉を開くと、接待用のソファーの肘掛に足を乗せて仰向けに寝ているガウリイの姿が目に入る。扉を閉める音に気づいたのか、ガウリイは眠そうな目を開いた。

「おはようございます。社長」
「ああ、おはよう、リナ」
「眠気覚ましに濃い紅茶をどうぞ」
「ありがとう」

 リナは軽く腰を下ろしてテーブルに紅茶の入ったカップを静かに置く。
 その後どうせ朝食も摂ってないだろうと思い、持っていたお弁当をガウリイの前に置いた。

「リナ、これ……」
「どうせ、朝ごはん食べてないんでしょう?」
「う……まあ」
「頑張るのも結構ですが、倒れられても困りますから」
「でもこれはリナのお昼だろう?」
「そうですが、言ったように寝不足と空腹で倒れられても困ります。あらかたの事後処理は済んでいるとは思いますが、全部済んだわけではないでしょう?」

 件のトラブルは相手側の伝達不備だ。今回はこちらに非がないが、なるべくトラブルなどないようにしたい。まだ新しい会社のため、何かあると信用問題に関わる。
 それに出張になるのだから、報告書なども必要だろう。相手側の会社に出向いているため、出張報告書などの書類も書かなくてはならない。
 そのあたりはゼルガディスが同行しているため、彼に聞いたほうが内容は正確に伝わるだろうが、ガウリイ自身も書かなければ交通費などは経費から落ちない。ガウリイの自前ということになる。

「とにかく仕事が始まる前に食べてくださいね」
「……」

 リナはそれだけ言うと、すっと立ち上がった。
 本当なら自分をないがしろにした文句を言ってやりたかったけれど、疲れているガウリイにそれ以上言う気は失せてしまった。

「それと、遅くまでお疲れ様でした」

 リナはトレイを持ったまま軽く頭を下げると、ガウリイは驚いた表情になる。

「リナ……?」
「ほとんど眠ってないんでしょ? とにかく倒れないように食べることだけはしてくださいね」
「あ、ああ」
「今回頑張ったみたいなんで、お弁当はあたしからのご褒美です」
「そっか……。リナのお弁当って手料理だよな。いつも美味しそうだと思ってたけど」
「もちろんです。だからご褒美なんです。美味しくなければ社長にあげません」

 リナはぷいっとそっぽを向きながら答えた。
 食事はいつも食堂で食べるため、ガウリイがリナの食べているところを見ているなんて思ってもみなかった。食堂にまったく顔を出さないわけではないけど、近くで食べたこともない。なのにちゃんと見ていて、しかも『美味しそう』なんてコメントつきだ。
 お世辞とはいえ、ガウリイがいろんなことを見ているのが意外だった。

「手作りのお弁当いいなぁ。なあ、これからオレに作ってくれないか? コンビニ弁当とか食堂の料理ばかりじゃ飽きるんだよなあ。あ、でもってリナも一緒に食べてくれると嬉しいな。社長室で一人で食べると味気なくて」
「はい!?」
「頑張ってきたんだから、もっとオレを褒めてくれていいだろう」
「不可能です。今回のことに関してはこれで精一杯。もっと褒めて欲しいなら、もっと仕事を頑張ってくださいね」
「う……もっと……?」

 にこやかに提案するガウリイに、リナは切って捨てた。
 ガウリイが途端にしゅん、となる。「頑張ったのになぁ」という呟きまで聞こえる。

(もう! なんて露骨に顔に出すのよ。これじゃあ、あたしが悪いみたいじゃないの!)

 リナはそれを見て、ちくっと胸が痛んだ。仕方なく、リナは小さく咳払いをすると、

「……ずっとは無理ですが、一週間だけ作ってあげます」
「本当か!?」
「嘘を言う気はありません。今回社長が頑張ったんでそのご褒美と、もっと頑張ってもらうためです」
「ああ。じゃあ、頑張ればもっと続く可能性はあるか?」
「それは社長の頑張り次第です。でも、あたし今回のこと個人的には少し怒ってますから」
「リナ?」

 なんだろう。今なら言えるような気がした。たぶんガウリイの気が緩んだせいかもしれない。社長室に入った当初は、ガウリイも疲れていて、とてもそんな話はできそうになかったけど、今は明るくなっていて、拗ねた感じになら言える。
 リナは息を吸うとガウリイに向かって、秘書である自分にも連絡して欲しいことを伝えた。何も知らされないで他の人から間接的に知らさせるよりも、ガウリイからきちんとしたことを知りたい、と。そのための秘書だと。

「あの時間では、確かに同行は出来ないかもしれないですが、知っていれば今日のスケジュールの調整とかを前もって出来ます。そうすれば社長だって負担は少なくなるでしょう?」
「あ、そっか」
「あたしは社長に仕事をさせるためにいるけど、なにも馬車馬のように働けといってる訳じゃありません。社長に滞りなく仕事をさせるためにいるんです」

 リナの中で、秘書とは社長のスケジュールを管理して、社長が働きやすいようにするのも仕事だと思っている。
 だから今回のように遅くまで頑張った次の日は、反対にゆっくりと仕事をさせてあげたいとも思う。

「疲れている時は仕事の量を減らしたりとか、その中でも優先的なものを頼むとか、そういった調整をすることが出来ます。そうすれば社長だって大変じゃないでしょ?」
「そうだな」
「あたしはそのためにいるんです。だからこういうことはきちんと連絡してください。こんな風に放っておかれると、あたしは一人前だと認められていないみたいで嫌です」

 リナはきっぱり言うと、ガウリイをじっと見つめた。
 ガウリイは一瞬きょとんとした後、笑みを浮かべた。

「確かに今回は知らせなかったけど、オレはリナのことを有能な秘書だと思ってるよ」

 

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