03. 響く雨音

 今日は待ちに待った金曜日だった。
 今日だけは気合を入れて、仕事をちゃんと終わらせるようにと朝から書類に目を通していた。
 細かい文字はそれだけで眠気を誘うような気がするけど、間違わないようにしっかりと目を通す。その後パソコンでメールのチェックをして、返事を返すものには返し、受注を受けたものに関しては、在庫表と照らし合わせて出荷日を決めていく。

 オレはあんまり物覚えが得意ではない。そんなオレを、ルナさんは根気よく仕事を教えてくれた。
 そんなオレが仕事をうまくこなすコツは、ゆっくりでもいいから確実に一つずつこなしていくことだ。
 分からなかったらちゃんと周りに聞きなさい。分からないことを分からないままにしないの、とルナさんが口をすっぱくして教えてくれたせいか、オレは人に聞くということが抵抗なくできた。
 それよりも知ったかぶりして失敗した時のほうが問題だ。
 ルナさんの教えは三年経っても身についていて、オレは仕事はあまり速いほうではなかったが、自分の腕を過信して失敗することはほとんどなかった。

「頑張ってるわね」
「ルナさん」

 声をかけられた嬉しさに、書類から目を離して後ろを振り返った。

「ご褒美にお昼をご馳走してあげましょうか?」
「え?」
「リナのところじゃないわよ。別のところ。ちょっと話があって」
「あ、はい。でもオレよく食べますよ?」
「そんなのとっくに知っているわ」

 ルナさんは微笑を浮かべてから、きりのいいところまで終わったら出かけましょう、と告げた。
 今日はラッキーな日かもしれない。ルナさんに奢ってもらえて、それにあの女にも会えるなんて、一年分の幸せがいっぺんに来たようだ。
 オレはルナさんの気持ちに答えるべく、少しだけ仕事のペースを上げて、十五分後にはルナさんとオフィスを出た。

 

 ***

 

 ルナさんが連れてきてくれたのは、裏通りにあるあまり流行らなさそうな中華料理屋だった。
 ルナさんとの意外な組み合わせに驚いていると、ルナさんは「ここはメイン通りから外れているから流行らないけれど、安くておいしいのよ」と自慢した。
 中に入ると寂れた感があり、客も少し時間が早いせいかカウンタに一人しかいなかった。
 店長は大声で「へい、らっしゃい!」と声をかける。その後「お、ルナさんじゃないですか」と言った。

「久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
「ルナさんも相変わらず綺麗だね。そっちはお連れさん?」
「ええ、部下よ」

『部下』というところを強調されて、やっぱりルナさんにとって、オレは手のかかる部下でしかないのかと少し悲しい気持ちになってしまう。
 ルナさんが他の連中より目を掛けてくれているのは、オレが他の連中より仕事の覚えが悪いのと、リナ――ルナさんの妹と付き合っていたという二つのためだろう。
 ルナさんの何気ない言葉で、彼女の自分に対する気持ちが見えてしまい、ルナさんとの関係はこれ以上進めないことをなんとなく悟る。
 代わりにルナさんに似たあの女にのめり込む気持ちが強くなっていく。

「ガウリイ、ぼけっとしてないで」
「あ、はい」
「こっちよ」

 ルナさんに導かれて、一番奥のテーブルに向かい合わせで座る。
 彼女に「好きなものを頼んでもいいわよ」と言われて、ルナさんの顔色を見ながらいくつか料理を注文した。
 料理が来るまでの間、なんとなく間が持てなくて水に何度か口をつけていると、ルナさんがやっと口を開いてくれた。

「どうだった? 妹の淹れたコーヒーは」
「美味しかったですよ。やっぱり料理上手だなあって。ただ……」
「ただ?」
「一杯五万には辟易しましたけど」
「まあ、一杯五万ねぇ。どういう意味かしら?」

 ルナさんはリナから何も聞いていないんだろうか。一杯五万というのを聞いて、きょとんした後、口元に手をやってくすくすと笑った。
 どうやらリナの爆弾発言に笑っているようだ。

「聞いてないんですか?」
「ええ。妹は妹の生き方があるもの。聞いてほしい時は聞くけれど、そうでない時は根掘り葉掘り聞いたりしないわ」
「そうですか」
「でも一杯五万は……いったいどういう意味かしらね?」

 ルナさんがリナから話を聞いていないということは、オレたちの別れたきっかけも知らないんだろうか。
 そう思っても聞けるわけがなく、オレはルナさんの話しにあわせることにした。

「どうやら卒業祝いと開店祝いを贈らなかったのが気に入らないみたいで。今回の五万は開店祝いだと言っていました」
「まあ」
「でもそんなに持ち合わせがなかったし、今度花束でも持っていくから、と許してもらいましたけどね」
「ま、当然ね。高校卒業も開店祝いも何もないんじゃ……」
「そう言いますけど、リナとは別れてしまった後だったし……それなのに卒業祝いを持っていくのはどうかなあ、と思って。お店を出したのは知らなかったし」

 オレはまたあの別れの時のリナの表情を思い出して、水の入ったコップを握り締めた。
 リナのことが嫌いになったわけじゃない。だから気にならなかったわけじゃないんだ。
 けど、あんな風に辛そうな表情をされるのは……すごくも辛い。いつも元気で笑っていたリナが、あんな顔をするのが耐えられなかった。
 また会ってあの顔をされたらどうしよう――そう思うと、リナに「卒業おめでとう」の電話一本すらできなかった。

「あなたたちがどうして別れたか――私が知らないと思っている?」
「――ルナさん?」

 ルナさんに言われて、体が硬直し、血の気が引くような思いがした。
 もしかしなくても、ルナさんはオレの中にあるルナさんへの想いを知っているんだろうか?
 そして、それが原因で別れることになったことも――

「人の想いは仕方ないことだと思うわ。誰かに言われて変えられるものじゃない」
「……」
「だからあなたを責める気はないわ。ただ……」
「ただ?」
「私はあなたの気持ちに応えられないわ。それだけは伝えておこうと思って」
「伝えて……自分は駄目だからリナともう一度付き合え、と?」
「違うわ。あなたが別の女性ひとを選んでも、リナは文句は言わないでしょう。ただ、あなたはずっと私を見ているから、だから吹っ切れるためにはっきり言っておこうと思っただけ」

 ルナさんは困ったような笑みを浮かべながらそう答えた。
 リナともう一度付き合えというのではないのなら、なぜ今になって言うんだろう。ルナさんのことはもう三年以上思い続けているのに、なぜ今になって?

「今になって言ったのは、あなたの気持ちがなかなか変わらないからよ、ガウリイ」
「……」
「でも、先週から少しだけあなたは変わりはじめた。だから今言っておこうと思ったの」

 ルナさんはオレの微妙な変化に気づいていたのか。
 けれど、会いたいと思っている女は名前すら知らず、ルナさんに似ているから身代わりにしているだけなのかもしれない。ルナさんより幼いけれど、顔形や雰囲気が似ている彼女を。
 そう思うと、今日これから会うあの女に後ろめたさを感じた。
 気まずくなった雰囲気の中、テーブルにエビチリ、焼き豚、卵スープ、麻婆豆腐、大盛りチャーハン、そしてルナさんが頼んだタンメンが一気に乗せられた。そのため会話は終了し、そのまま食べることに専念することにした。
 いい加減、この気持ちにけりをつけなければならないと思いながら――

 

 ***

 

 夕方から小雨が振り出して、約三時間の残業を終えた頃にはかなりの降水量になっていた。不幸にも傘は持ち合わせていないし、借りれそうな人もいない。
 それに早くしないと十時までに『リトル・エデン』に行けなくなってしまうと思い、オレはスプリングコートを羽織り、カバンを傘代わりにアーケードのある商店街まで走った。
 アーケードに入ると、薄い屋根に当たる水音が響き、道路には水溜りや、少し窪んでいるところには小さな流れができていた。
 オレは濡れたコートとカバンを持っていたハンドタオルで拭きながら、足早に『リトル・エデン』に向かった。

 

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