02. 想い出になんかできない

 オフィスの窓際でオレは一つため息をついた。
 あの日からオレの口から出るのはため息ばかりだった。

「いい加減きっちり仕事しなさい」

 ファイルでばさっと頭を叩かれて、やっと現実に戻る。振り返れば、オレの上司であるルナさんがいた。

「ルナさん……」
「何があったか知らないけれど、最近のあなたはおかしいわよ」
「そ、そうですか?」
「ええ、妹が言っていた『くらげ』っぷりに、更に輪をかけて脳みそに『ヨーグルト』まで詰まった状態ね。妹がそう言っていた時は少し気の毒だと思ったけれど、今のあなただとまさにその通りだわ」
「あ、ははは……」

 確かに今週のオレのボケ具合は、リナ――ルナさんの妹――ならはっきりそう言うだろう。
 しかしルナさんにまでそう言われるとは……オレは苦笑するしかなかった。
 だいたいルナさんに似た不思議な女のことを四六時中考えていた、なんて言えるわけがない。

 ルナさんはオレの昔からの想い人だった。
 この会社に入ってすぐに彼女に仕事を教えてもらって、仕事のノウハウを彼女から学んだ。
 彼女とはたった二年の差しかないのに、仕事ができてすぐに昇進していった。おかげでオレがやっと一人前と言われるくらいに仕事ができるようになった三年目には、彼女はもう係長にまで昇進していたのだ。異例の昇進ぶりだ。
 仕事ができて美人で、オレはそんなルナさんを秘かに想い続けていた。
 でもたまに聞く恋人の話になかなか踏み出せない。
 確かにルナさんほどの美人なら、相手がいないというのがおかしいだろう。モデルには劣るが、それなりに高く均整の取れた体。黒い艶やかな絹のような黒髪、ミルクのような白い肌、そしてルビーのような輝きを放つ綺麗な赤い瞳。
 いつの間にか、オレは見ているだけでも幸せだと思うようになっていた。

「でもこれじゃあ、入ってきた時より悪いわね。私の監督不行き届きになってしまうんだけど……どうしてやろうかしら」

 剣呑な表情でオレを見るルナさんを見て、慌てて「物騒なことは言わないでくださいよっ」と身を竦ませる。

「あら、私はやるときはやるわよ。あなたも良く知っているでしょう?」
「ええ、ここに来てルナさんに仕事のノウハウを教わったんですから」
「じゃあ、私が本気だということも分かるわね?」

 極上の笑みを浮かべて、さて、これからどうやって苛めてやろうかしら? というのが窺えて、オレは慌てて少し後ずさった。
 ルナさんならやるといったらやる。
 下手をしたら、ルナさんの下でなくて、よそへと移動させられるかもしれない。『根性叩きなおしてきなさい』などと言って、現場に回されるとか……。
 そんなのは嫌だっ!

「いやねえ、そんなに怯えなくてもいいじゃない?」
「怖がるな、というほうが無理ですよ。ルナさんの有能ぶりは社内でも有名ですから」
「ま、お褒めの言葉ありがと」
「そういう意味では……」
「ふふ、まあいいわ。さて……これは仕事に関してのお仕置きじゃないけれど……近くに『カノン』って喫茶店ができたの。小さいけど小ぎれいな喫茶店よ。男の人でも気にせず一人で入れるような、ね」
「はあ……」

 ええと、ルナさんは何が言いたいのだろう?
 今は仕事中だし……確かにもうすぐ昼飯の時間だが。
 戸惑うオレに、ルナさんは先ほどオレを叩いたファイルを取り上げて、また笑みを浮かべた。

「そこへ行って一番濃いコーヒーを飲んで頭をすっきりさせてきなさい」
「はあ? でも時間が……」
「それくらいは融通してあげるわよ。それより上司命令だけど行けないの?」
「い、行ってきます」

 オレは頬に冷や汗を一筋流しながら、慌ててオフィスから出ていった。
 だからルナさんの最後の声はよく聞こえなかった。

 ――本当に世話の焼ける子たちだこと――

 

 ***

 

 ルナさんから教えてもらった『カノン』は分かりやすい場所にあった。
 まだ真新しい喫茶店特有のコーヒーの看板。木の扉に手をかけて開けると、「いらっしゃいませ」と明るい声がした。
 ……って、この声って――

「あれ、ガウリイじゃない?」
「リナ……」

 カウンターの中にはルナさんの妹のリナ。明るい栗色の髪を左右にまとめてだんごにしている。赤い大きな瞳は元気いっぱいな感じだ。瞳の輝きはルナさんに勝るとも劣らない。
 ただ体はルナさんに比べると遙かに劣る。というと聞こえは悪いが、小柄で華奢な体は男の目から見れば見劣りしてしまうだろう。
 今はTシャツにGパン、上にエプロンをつけている。女性らしいお洒落さはないが、シンプルで清潔感のある格好をしていた。
 リナとはだいたい二年ぶりだったが、相変わらずの小ささだ。

「どうしたの?」
「は?」
「座るの、座らないの? ボケーっとして」
「あ、ああ、座る座る。ルナさんに一番濃いコーヒーを飲ませてもらえって言われたんだ」
「相変わらずそうね。律儀で……姉ちゃんに言われたから、ちゃんとそれを飲まなければ、っての」
「はは……後が怖いからな」

 そんなに律儀なほうじゃないと思うけれど、ルナさんに言われたことはしなければ怖いからなあ。
 ぜったい後で感想を聞いてくるに違いないし。

「んじゃ、オーダーはそれでOK?」
「あ、っと。飯もついでに。先にそのコーヒーを入れてくれよ」
「はいはい。リナちゃん特製すぺしゃるブレンドコーヒーね。あ、これ一杯五万円だから」
「はあああ!?」

 い、一杯五万円???
 なんてバカ高いコーヒーなんだ。ルナさんそれを知っているのか?
 いやでも、ここで払わなかったらリナとルナさんから何を言われることか。もしかしたら明日の日の目は拝めないかもしれない。
 思わず財布の中身を確かめたくなって、ズボンのポケットに手をやった。

「くっ……あははっ」
「リナ?」
「本当にバカ正直ね。そんなに高いコーヒーがあるわけないでしょう?」
「じゃあ、普通の値段なのか?」
「ええ、でも五万はもらうから」
「どうしてだよ?」

 騙されてちょっとムカッとして、しかめっ面で尋ねた。
 リナは反対に楽しそうだ。

「当たり前でしょ? いくら別れたとはいえ、姉ちゃんという繋がりがある癖に今まで連絡一つ寄こさないで。その間にあたし高校卒業したし、それにこのお店も始めたわ」
「う……」
「ま、五万は……そうね、しいて言えばこの店の開店祝いってとこかな? あと卒業祝いもいずれちゃんともらうから」
「……」
「覚悟してね♪」

 女は強いというか――リナはにこやかな笑みを浮かべると、背を向けて何かしだした。
 実はリナと一年だけ付き合っていた時がある。まだリナが十六の頃だから、今考えると犯罪だよな。
 その頃ちょくちょくルナさんの家に遊びに行っていたオレは、そこで高校に入学したばかりのリナと出会った。リナはルナさんと違って小柄で子どもっぽくて、でもパワーは人一倍溢れていて、ルナさんとはまた違った魅力を持っていた。
 付き合い始めたのはリナの告白が切っ掛けだった。
 会社に入ってすぐにルナさんに惹かれて、でもルナさんには恋人がいるというのを噂で聞いて、ぐるぐる悩んだあと、諦めかけていた頃でもあった。
 だからルナさんを忘れるためにも(情けなくもルナさんからも薦められてしまったのだ)いいかもしれない――そう思って付き合った。
 こう言うとリナのことを好きじゃないくせに、ルナさんを忘れるために付き合ったのか? と言われそうだが、そうでもない。リナと付き合っている頃はとても楽しかった。
 最初は子どもの恋愛ごっこのようだったが、それでもリナは明るくて、一緒にいると楽しかったし、ちゃんと恋をして変わっていくリナを見るのも好きだった。

 でも、やはりどこかで忘れきれない心があった。

 リナはそれに気づいたのだろう。
 一年後に「別れましょう」と簡潔に切り出された。
 感づいているリナに何も言えず、オレはそのままリナと会うのをやめた――

 その時のリナの悲しみを押し殺したような表情が目に焼きついていて消えない。
 我が儘だと思うが、リナにはいつも元気でいて欲しい。だから、あの時の表情は思い出の中に残しておきたくない。
 けれど、あの時の記憶だけは鮮明過ぎて、いつまで経っても忘れることができなかった。

 

 

そういえば、ルナ姉ちゃんの髪の色は本当はリナと同じ栗色なんですよね;
最初のころはそれを知らず、アニメOPとかでちらりと出てくる黒髪ルナ姉ちゃんで覚えてしまって、かおさんから設定では~と聞いたときには驚いたっけ…

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