紅 10

 二年前の別れの日――
 明け方になると、リナは目を覚まして起き上がった。空はまだほんの少し白んだ程度で、まだ夜といっていい暗さだ。
 隣にはまだガウリイが気持ちよさそうに眠っている。そういえば、長年旅をしながらこんな近くでガウリイの寝顔をゆっくりと見るのは初めてだと思いつつ、リナはガウリイの耳元に顔を近づけた。

眠りスリーピング

 ガウリイの耳元で囁くように『眠り』の呪文を唱えると、リナは再び体を起こした。ガウリイは『眠り』が効いたのか、いまだ夢の中で、リナがベッドから出ても起きる気配がなかった。
 リナはそれを確認しつつ、脱ぎ散らかしたパジャマを拾い上着だけを羽織った。
 そしてしばらくの間、幸せそうに眠るガウリイを見つめた。
『眠り』のせいもあるだろうが、それでも一流の剣士が警戒もせず眠るのは、どれだけ自分に対して心を開いていてくれるのかが分かる。
 少なくとも、出会った当初はガウリイの眠る姿など見たことがなかったため、それほどまでに心を許してくれたのが嬉しい。
 ――でも。

(ごめんね。あたし、あんたを裏切るわ)

 リナは少し寂しそうな笑みを浮かべた後、表情を引き締めた。
 そして、何もない空間へと向かって話しかける。

「ゼロスいるんでしょう? 約束よ。ガウリイの想いを封印して」

 リナの少し緊張した高い声が室内に響く。
 そして語りかけた空間からは、闇が生じ、更に人の姿が現れた。

「もちろん、いますよ。でも、いいんですか?」
「いいも何もないわ。最初からそういう約束でしょう。早くして」

 すでにこれはゼロスとの契約だったのだ。魔族の条件を飲む代わりに、ガウリイの記憶操作を行うと。
 リナは少し苛立ちながら答えた。
 ゼロスがわざと焦らしてリナを苛ださせていることくらい、分かり切っている。魔族なのだから仕方ないのだろうし、それにそんなヤツと契約を交わすのだからそれも仕方ないと思う。
 それでも一見無害そうな笑顔を浮かべたゼロスを見ると殺意が湧いてくる。いっそこの男を殺せるものなら殺してやりたい――そう思ってしまう。
 ゼロスはそんなリナの心の内を見抜いたのか。

「はいはい。約束でしたからね。でも、いいんですか? リナさんに対する想いを封印するだけで。リナさんの記憶を封印しちゃったほうが早いんじゃないんですか?」
「そんなことしたら、みんなにも『リナ=インバース』の記憶を封印しなきゃならないじゃない。あんた、あたしのことを知ってる人間すべてに記憶操作する気あるの?」

 と、逆に質問する。
 その行程の多さを考えたのか、ゼロスが人間のように眉をひそめて面倒だという表情を見せた。

「ほら見なさい。面倒でしょう? ガウリイだけ封じたら、アメリアたちに会った時に矛盾が出るわ。だから、たとえ『リナ=インバース』の名を聞いても、ガウリイの心に響かなければそれでいいの」

 記憶や感情の操作は簡単そうに見えて実はとても難しい。
 今まであった記憶を『消す』ということは、たとえ魔族の力を使っても不可能だった。できることは、その記憶を『封じる』ことだけ。
 記憶喪失と同じでただ単に思い出せないだけで、頭の中ではしっかり記憶に残っているらしい。それを無理やり消すというのは、その人物の精神崩壊に繋がりかねない危険なものだと言われた。
 とはいえ記憶を封じたとしても、場合によっては第三者との記憶の整合性が問題になってくる。封じても記憶を改竄しても、他人の手によって綻びが生じてしまう。
 特に無理やり思いだそうとした場合、それはその人物の精神に致命的な傷を与えかねない。
 そのためリナはガウリイの記憶の中から、リナに対する愛情だけを封じるよう、ゼロスに頼んだ。
 それだけなら他の人からリナの名を聞いても、そんな知り合いがいたという程度で済ませられる。もしばったり会っても知人として会うだけで済むと判断したからだ。

「なるほど。確かにガウリイさんの心を考えればその通りですね」
「そうよ。分かったなら早くやって」
「まあ、少しは話をしてもいいじゃないですか。リナさんは僕がガウリイさんの記憶を操作したら、ガウリイさんの前から消えるんでしょう?」
「……」
「僕はこれでも、少しでもリナさんとガウリイさんが別れるのを延ばしてあげてるんですよ。なにせ、リナさんはガウリイさんの感情を操作するために、ご自分の純潔までかけたんですから」

 揶揄するように言うゼロスの言葉に、リナの顔が朱に染まる。
 記憶操作はかけられる者が安定し、心を開いているほど、より深いところまで効果があるとゼロスから聞いた。そのためにリナはあえてワインで酔わせ、自分に心をもっと開くようにと体を重ねた。
 ガウリイの記憶操作をより確かなものにするために。

(ううん、違う。本当はあたしがガウリイとの思い出が欲しかっただけ。最後にガウリイの思いを知って、ガウリイの温もりを覚えたかったから……)

 リナは今を最後にもう二度とガウリイの前に姿を現す気はなかった。
 たとえガウリイが知人に会った程度の認識しかなくても、リナはガウリイと過ごした日々を忘れられない。でも会った時、ただの知人程度にしか見られないとなると、リナ自身が辛いと判断したためだ。

「自分の記憶も封じられれば良かったんだけどね……」

 リナは俯いてボソッと呟いた。
 誰よりも自分自身がガウリイのことを忘れたかった。
 これから先を、たった一人で生きていくために。

「まあ、それは無理ですけどね。僕にも、たぶん獣王様にもリナさんの記憶操作は無理です。なにしろ、あの御方の痕跡がしっかり残ってますからね」
「分かってるわよ。そんなこと言われなくても……」

 リナはゼロスに答えるわけでもなく、下を向きながら苦々しく吐くように言った。
 リナ自身、誰よりも分かっていた。自分の体に起こっている変化を。
 決して抗えない力を――

(だからゼロスの――魔族の条件を飲む振りをして、ガウリイと離れることを決めたのだから……)

「とにかく早くやって。でないと夜が明けてしまうわ」
「はいはい。ではリナさんもこちらの出した条件をきちんと守ってくださいね。でないとガウリイさんの命の保障はできませんから」
「別にあんたたちがちょっかい出してこなければ問題ないんだけど?」
「はは。まあ、以前は僕も仕事だったんでしょうがなかったんですよ。ま、これでリナさんはともかくガウリイさんと会うことはほぼなくなるでしょうが」

 リナの言葉にゼロスは苦笑しながら、ガウリイの前に普段持っている杖をかざした。
 杖に埋め込まれた石が淡く光りガウリイを包み込む。その光はしばらくすると収まり、ゼロスは杖を下ろした。

「これでガウリイさんのリナさんに対する想いは封じられました。では約束はきちんと守ってくださいね」

 ゼロスはリナのほうを振り返って言うと、現れたときと同じように空間に溶け込んで消えていった。
 ガウリイは何も知らず気持ちよさそうに眠っている。
 リナはそんなガウリイをしばらく見つめて、そして。

「さよなら。ガウリイ」

 短く呟きガウリイの部屋を後にした。

 

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