サイラーグにいるシルフィールは朝一番で魔道士協会を訪れた。
いつもより早く起きて朝食を取り、仕事先に向かう前にガウリイから伝言がないか確認しに来たのだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。シルフィールさん。今日は朝からどうしたんだね?」
「わたくしにガウリイ様からメッセージがないかと思って……」
ガウリイは誠実な人だ。一人で旅に出たからといって、シルフィールのことを忘れてしまうような人ではない。きっとなにか連絡を入れてくれているに違いない――そんな淡い期待から、シルフィールは朝食をとるとすぐにここへと来たのだ。
「ああ、ガウリイさんは今セイルーンに向かっているんだっけ。確か鍵は開いているはずだから入って確認するといいよ」
「ええ、ありがとう」
シルフィールは受付の魔道士に礼を言うと、目的の場所へと向かった。
行ってみるとシルフィールの望みどおりメッセージがあり、シルフィールは嬉しそうにそれを聞き始めた。
『シルフィール、オレだ。セイルーンに向かう途中でリナを見つけた。今、アゼリア・シティにいる。リナを探すために、これからどこへ行くか分からない。多分、セイルーンにも行けないだろう。それにサイラーグに戻ることも……。シルフィール……すまない……』
今どこにいる。シルフィールのほうはどうだ? そんなメッセージを期待していたのに、水晶球から流れてきたのは苦しそうなガウリイの声と別れのメッセージだった。
「嘘よ……そんな、嘘よ……」
シルフィールは小刻みに震え、信じられないといった表情で頭を左右に振る。
シルフィールと過ごした二年間、ガウリイは一度たりとも『リナ』の名を口にすることはなかった。
だからシルフィールもサイラーグの復興に目途がついたら、きっと自分と一緒になってくれるのに違いないと口には出さなかったが密かに思い込んでいた。
それなのに一人で旅に出た途端、『リナ』の名前が出て、いきなり別れを告げられたのだ。
「そんな……そんな……嫌な予感って、このこと……だったの?」
シルフィールが感じた嫌な予感はガウリイに対してでなく、自分に対してだったのか――シルフィールは考え込んだ。
だけど、依然としてガウリイに良くないことが纏わりついているという気持ちは消えない。
(駄目。このままリナさんを追いかけたらガウリイ様は……!)
早く行ってガウリイを止めなければ行けない――いいようのない不安がシルフィールを襲った。
シルフィールは力なく立ち上がり、サイラーグ復興の第一人者になっている人物のところへと向かった。ガウリイの様子や彼女が感じる不安などを話すと、彼はシルフィールにガウリイを追いかけるよう勧めた。
シルフィールはその勧め通り、最低限の荷物を持ちアゼリア・シティへと向かったのだった。
***
「んー……寝過ごしちゃったみたいね。あちこち痛いわ」
リナは硬い土の上で目を覚ました。既に太陽は東の空に昇ってだいぶ経っていた。
夜暗い時には気づかなかったが、遠くに町と思しき建物が見える。リナは下に敷いていたマントを振って埃を払うと装着して荷物を持って、町に向かって歩き始めた。
「町に着いたら、まずはご飯よね」
リナは極力明るく考えながら、てくてくと歩いていく。
だけど、実際ここ二年間楽しく食事をしたのは昨夜の一回しかなかった。気がつくと食事も一人ではつまらなくて、今まで満足していなかったことに気づいた。
それでも今さらもとに戻るわけにはいかないと、何度も心に言い聞かせて二年間を過ごしてきたのだった。
それなのにガウリイと再会してしまった。
望まぬ再会だったが、ガウリイの様子にリナに対する特別な想いは見えなかった。安心してしたのも束の間、ガウリイは別れた時のことをしきりに気にしだして――気づくとキスまでされてしまった。
リナはそっと自分の唇に触れる。ガウリイの唇の柔らかさ、舌の感触がリアルに蘇えってくる。
(あんなこと、しなきゃ良かった……)
リナは二年前の行為を悔いていた。
あの時は思い出が欲しいと、ガウリイの記憶操作にもいいと思って、最後の一夜でガウリイに抱かれた。
だけどそれは覚えているリナの心を苛んだ。初めての夜に対する強烈な記憶と、そしてそれを利用した罪悪感。その後もガウリイ以外の男性に心が移ることもなく、二年間ずっと一人で生きてきた。
(これからどうしよう。ガウリイとはなるべく会わないようにするのは当然だけど……封印のほうは大丈夫かしら?)
ガウリイはたった一度再会しただけで、深い深い場所に封じた想いを容易く解いてしまった。
一度かけた封印は二度とかけることはできない。咄嗟にガウリイから離れてしまったけど、ガウリイは変に思わないだろうかと心配した。
ガウリイが思い出したのだって、ほんの少しかもしれない。全部思い出したわけではない。なら逆に不信感を与えてしまったかも――いまだに心の中で言い訳めいたことを考える。本当はリナ自身ががガウリイから離れたくなかっただけなのだ。
駄目だ、と頭を左右に振る。その気持ちと油断が封印を綻ばせた。これ以上一緒にいたら、全てを思い出してしまう。そんなことになったら二年前の決断が水の泡になってしまう。
(もう、ガウリイに会っちゃ、駄目なんだ……)
リナはそれ以上考えることをやめて、町の中に入っていった。町はもう朝市の時間も過ぎていて、それぞれが自分の持ち場について仕事をこなしていた。
リナはその中を適当に歩いて食堂を探した。そしてほんの少し先にナイフとフォークが描かれた看板を見つけ、そこへと足を向けた。
(お腹が空いてるからマイナス思考になるのよ。たくさん食べたら明るく考えるようにして、一気にここから移動しなきゃ!)
そう思った矢先に、路地裏に繋がる細い道から出てきた手に腕をとられ引っ張られる。リナは予想していなかったために抵抗することもできずに、そのまま細い路地へと引きずり込まれた。
ガウリイと別れた後は、女一人で油断するのか、こういったことが何回かあった。
声をかけてくるのはまだいい。けれど、このように実力行使に出るようなヤツもいる。もちろんそういう輩には思いきり痛い目を合わせてお金を巻き上げていた。
今回も例に漏れず、憂さ晴らしに呪文でぶっ放し、有り金全部を巻き上げようと決めた。
そして不意打ちするために小声でしかも早口で『混沌の言葉』を唱え始める。
呪文が完成し、相手を吹き飛ばそうと思って振り向いた瞬間、リナは自分を捕まえた人物を見た瞬間、『力ある言葉』を忘れた。
「ガウ……」
引きずり込んだ本人は、昨夜宿においてきたはずのガウリイだった。
躊躇っているうちに、喧騒の届かない奥深くまで引きずり込まれ、そして壁にどんっと押し付けられた。
「ぃ、ったー……」
背中を打ち付けられて、痛みを感じ思わず片目を瞑り声を上げてしまう。ガウリイはリナの背中を壁に押し付けると、前は自分の体を押し付けて完全に身動きできないようにした。
それにリナは気づいたが時すでに遅しで、自分の視界に入るのはガウリイの胸と長いきれいな金糸だけだった。
「なんで急にいなくなった?」
上から聞こえる声にリナはどう答えていいか分からず、そのまま沈黙を続ける。
というか、いつもより低いガウリイの声が、リナには怖く思えた。
「残されたオレが、どんな思いだったか分かるか?」
「……」
「そんな時にゼロスのヤツがいきなり現れて、全部教えていってくれたよ」
「え……?」
『ゼロス』という言葉にリナが反応する。
まさかゼロスがあの取引をガウリイに話すとは思えなかった。信じられないといった顔でリナはガウリイを見よう顔を上げる。
そのため、ガウリイは少しだけ拘束を緩めリナが顔を上げられるようにした。そして赤と青の視線が交わる。
「信じられないといった顔だな。でも本当だぞ。ゼロスはご丁寧に二年前オレの命を盾にしてリナを脅したことまで説明してくれたぞ。ついでに昨日のことも……な」
ガウリイの言葉にリナは内心、『ゼロスのヤツ、今度会ったら絶対ただじゃおかないから……』と心の中で毒づいた。
ガウリイは更に続けてこう言った。
「リナがゼロスに脅されて心配するのも分かる。オレだってリナの命を盾にされたら同じことをするかもしれないさ。それに対して何か言うつもりはない。ただ――」
ガウリイのその言葉にリナの体が震えた。ガウリイの記憶はいったいどこまで蘇っているのか。
まさか、まさか――
リナはいいようのない不安に襲われる。体が小さく小刻みに震える。逃げられるものなら今すぐにでも逃げたいほどだ。
ガウリイの沈黙が痛くて、リナは表情を見ようと視線を上げた時だった。
一瞬視線が合うと、ガウリイのそれが刃のように鋭くなる。
「分からないのは……なんで二年前、オレに抱かれたんだ? 自分から誘うようにして……あの時もう別れを決意していたんだろう? だったら、なんでそんなことをした?」
いきなり核心に触れリナの体が硬直する。
(そこまで思い出していたの!?)
封印の全てが解かれているのを知ってリナは愕然とした。ガウリイにかけた記憶の封印は、強固だったはずだ。
まさか、ゼロスが手を抜いたのか? と思わないでもなかったが、今現在の問題は目の前にいるガウリイをどう躱すかだった。
「リナ、オレは自分で言うのもなんだが、あんまりものに執着することはない」
「……」
「だけどいったん執着すると、自分でも信じられないほどの執着や独占欲が出るみたいだ」
「……」
淡々と抑揚のない声でガウリイはリナに話していた。
リナはどう答えていいのか分からず無言を貫くしかない。
「こんなのは初めてだ。そう自分でも制御できないほどのものは……。そしてそれをほんの一瞬でも手に入れたのなら、もう手放す気はない」
そう言うと、ガウリイはリナの顎を掴み自分の視線から外れないように固定する。
そして――
「もう一度言う。なんでオレの前から消えた?」
そう問うガウリイは、リナが長い間見続けてきたガウリイとはまるきり別人のようで、リナは皮膚が粟立つのを感じた。