この部屋に来て数十分の間に起きた出来事に呆然とし、そしてため息をついた後、トリィが軽く肩を叩いた。
「トリィ……」
「とりあえず、窓を閉めて居間に行きましょう。二人ともしばらく戻ってこないわ」
「あ……うん、そうだね」
「それと……」
ここで少し口ごもるトリィ。
なに、と思っていると、少し頬を赤らめた後、視線をそらしつつ。
「その格好、もう少しなんとかした方がいいんじゃないかしら?」
「うわあぁっ」
めくれたところは直したけど、よく見るとかなり……な格好。慌てて後ろを向いて服を直す。でも、待っているならパジャマじゃなくて、着替えたほうがいいのかな。
「トリィ、ごめん。ちょっと着替える」
「……勝手にして。先に行ってるわ」
「ごめん」
タンスから適当にTシャツとGパンを取り出していると、その間にトリィは窓を閉めて、扉を片づけてから下に降りて行った。あの厚い扉を軽々持っちゃうあたり、やっぱり人間じゃないんだよね。
少しよれたパジャマを脱いで、TシャツとGパンに着替える。いつもの格好になると少しほっとした。
「はー……なんかよく分からないけど、バタバタしすぎだよ……」
ぼやきながら脱いだパジャマを簡単にたたんでベッドに置いた。
そのあと思い切り息を吐いてから立ち上がり、壁に立てかけられた扉を見ながら自分の部屋を出た。
ってか、今日はここで寝れないだろうな。まあ後のことより、説明を聞くほうが先かな? トリィが知っているようだから、ぜったい聞き出さなきゃ。
***
下に降りていくと、急にピーっという音がしてびっくりする。音の出所はキッチン。どうやらトリィがお茶を入れてくれているようだ。
優しいところあるなぁ、って思っていると、今度はガシャンと食器が割れる音がする。
……ええと、そういえばトリィが料理をしているところって見たことないかも?
ヤバイ! お気に入りのカップを割られる前に行かなきゃ。
「トリィ、あたしのカップなんだけど――」
「あら、早かったのね」
「そりゃ、いつもの格好だか……あああっ! あたしのカップ!?」
トリィの足元を見ると、あたしのお気に入りのカップが無残にも粉々になっていた。ああ、これちょっと高かったけど、一目ぼれして思い切って買ったのだったのに……。
「ああ、ごめんなさい。あなたはこれをいつも使っていたから、棚から出そうと思ったんだけど……つい、落してしまったの」
「落してしまったの、じゃないー! わざとでしょ? わざと!」
カップなんていつかは割れるもの。だから文句言っても仕方ないんだけどね、一応。
でも、トリィは笑顔で言っているから、多分あたしのお気に入りのカップだって知っててやったんだと思う。
ついでにあたしが文句言っても平然としてる。その様子がワザとやっているとしか思えない。
「まったく……気遣いだか意地悪だか分からないこと、しないでよ」
笑みを浮かべたまま立っているトリィに、仕方なく床に落ちたカップの破片を怪我をしないように注意して集め始めた。
全部拾い終わって不燃物の入れ物に入れようとした瞬間、後ろから首を掴まれた。これっていつかと同じようなシーンみたい。
……って、ぼけーっとしている場合じゃない。苦しいし、痛いんだってば。
手を外すためにトリィの手を掴もうとする。でもそれはなかなか外れない。
「やっぱり……あの時に殺しておけば良かったわ」
「と、り……?」
あの時とは、初めて会った時のことだろう。
でもなんで今更? やっぱりさっきのを見られたから……だろうな、うん。こちらも恥ずかしかったんだけどね。
どちらにしろ、急に態度が変わったトリィに上手く対応できない。でも、すぐに殺す気はないのか、苦しいけど、意識を失うほどじゃない。
……だから余計に苦しいんだけど。
「琴音、知らないことは仕方ないわ。人は全てを知ることは出来ないのだから。けれど、知ることができるチャンスがあるのに、見て見ぬふりをするのは愚かだと思うわ」
「……?」
何が言いたいのかよく分からず、黙ったままいると、トリィはあたしを掴んだまま鏡の前に移動する。
だから苦しんだってば……。
「ご覧なさい。あなたが真実を知ろうとしないから、秋月は全てを一人で背負おうとしているのよ」
そう言って鏡を手でひと撫ですると、そこには秋月とウェンさんの姿が映った。
しかも、二人とも傷を負っている。特に秋月のほうが多い? 致命傷になるような酷いものじゃないけど、傷の数はウェンさんより多い。
「……なに、これ……?」
傷を負わせているのは数人の男たちで、ウェンさんやトリィのように目が赤い。本能的に、秋月たちと同族――吸血鬼だと分かる。
傷だらけの秋月を見て少なからず動揺していた。掠れた声で、トリィに問いかけた。
「盛大な腹いせよ」
「………………は?」
あの、目の前に映る光景と、トリィの言葉がまったく合わない気がするのは気のせい……じゃ、ないよね?
「意味がよく分かりません……」
「本当にお馬鹿さんね、琴音。言葉のとおりよ」
さっきは知ろうとしないのは罪だとか言っていたくせに、肝心なところは話してくれないじゃない。
鏡のほうに力を使っているのか、いつの間にかにあたしの首を絞めていた手が緩んでいた。後ろにいるトリィに肘鉄を食らわせると、首から手が離れる。
その隙に逃げるという予定だったんだけど、力が強すぎたのか、トリィはよろめいてテーブルにぶつかって、バランスを崩して倒れ込んだ。
「ごっごめん! 大丈夫!?」
ヤバイ。あたしも力が強くなっているんだっけ。それにトリィも油断していたみたいだし、ちょっと力入れ過ぎちゃった。
慌てて手を差し出すと、トリィの顔がなんとも言えない表情になる。
「……わたくし、やっぱりあなたのこと嫌いだわ」
「あのねぇ!?」
「だって心の底から憎ませてはくれないんですもの」
「そう言われても……、秋月も可愛がっているみたいだし、話をしてみると悪い子――トリィのほうが年上だけどーーじゃないし、殺されそうになっても、やっぱりあたしもトリィを憎むってのは無理みたい」
「……ずるいわ」
仕方なく転がったままのトリィを引っ張って鏡の前に連れていく。
「あのね、拗ねてないで状況を説明してよ。本っ当に何がなんだか分かんないの。確かにあたしも知ろうとしなかったけど、こんなの初めてなの!」
十六歳の誕生日の日から、知ったことは秋月が吸血鬼だってこと、あたしをその仲間にしたこと、でもって仲間にしただけじゃなくて、あたしを相手に決めたってことくらいだ。
少しはトリィから昔の話とか聞いたけど、直接あたしに関わりそうなことじゃないし、秋月は話をする前に身の危険を感じてしまうし。
「あたしだって知りたいよ。秋月ってかなり強いみたいだし、そんなのが、なんであたしを――って思うもの」
「聞く気が……あるのね?」
念押しするってことはかなりの重要な裏話があるってこと?
だけど、ここまでされたら聞くしかないじゃない。
「あるわよ。聞いてやろうじゃないの!」
「分かったわ。でも……まずお茶をいれて頂戴」
人が意気込んでいるのに、いきなり茶かい!?
一瞬拍子抜けした後は、じわじわと怒りの感情が湧いてくる。
「…………あのねぇ」
「話が長くなりそうだからよ」
「……分かったよ」
仕方なく折れて、湧いたお湯でお茶をいれることにする。
いつも使っているポットに一回分の茶葉を入れ、お湯を注ぐ。同時にカップにもお湯を入れて温めた。
「ねえ」
沈黙が嫌で、あたしはトリィに話しかける。
「なに?」
「そんなに落ち着かないと話せないこと?」
「そう、ね。たぶん聞いたら信じたくないと思うような内容……かしら?」
「……覚悟が必要ってこと……か」
「ええ」
……う、やっぱり聞きたくないかもしれない。
「今さら駄目よ。あなたは聞いて自分で考えるしかない」
「考える?」
「そう。考えて自分の中で答えを出すの。もう、目を閉じることも、耳を塞ぐことも出来ないわ」
もったいぶった言い方に、やっぱり聞きたくないと思うけど。でも、多分ここは通過地点なんだと思う。そして、聞かなきゃ始まらないこと。
そんなやりとりをしていると、丁度いい時間になったのでカップのお湯を捨てて、紅茶をゆっくり注ぎ始める。
日常の動作はこの異様な状態を少しだけ緩和させてくれる。トレイにカップをのせて、明日の三時用のクッキーも一緒にのせた。
「じゃあ、居間でゆっくり話しましょう」
「うん。全部話して」
日常はここまで。ドキドキする心臓を宥めながら、トリィと一緒に居間に移動した。
***
トリィはいつも座る所に座ったので、向かい合う形にカップを置いて、真ん中にクッキーを置く。
その後あたしも腰を下ろした。
「さてと話してちょうだい。あれだけもったいぶったんだから、あっさりした内容だと拍子抜けしちゃんだけど」
「ええ。その前に、琴音はご両親のことは聞いてる?」
「は? 両親? ううん、聞いてないよ。だって気づいたらあたしは一人でいたんだもん。お腹がすいて寂しくて、そんな時に秋月が来たの」
うん、確か覚えている記憶はそんな感じ。
秋月が言っていた長ったらしい説明は全然覚えてないけど。
「そう。ならそこから始めましょうか」
「始める?」
「そうよ。あなたが言ったその記憶は嘘。多分、秋月が記憶を書き換えたのね」
「え? ちょっと待ってよ。なんだってそんなこと……」
記憶を書き換えた? なんでまたそんなことするの?
「これは秋月から直接聞いた話よ。嘘じゃないわ。だから落ち着いて聞いてね」
「う……、はい」
またもや念押し。すごくもったいぶってるけど、一体どんな内容が出てくるってのよ?
ちょっと怖くなって、落ち着くためにカップに手をかける。震える手で持ちながら、一口こくり。
「あなたのご両親は殺されてるの」
「え?」
「しかも、あなたの目の前で」
ちょっと待って。トリィは何言ってるの? 殺された? 誰が? 親が……あたしの目の前で?
心臓がバクバクものすごい音を立て続ける。
なんか怖い。これ以上聞いたらすごく怖い。聞いたことによって、本当のことを思い出しそうで――そう感じた途端、なぜかトリィが言うことが真実だと、心の中で判断を下した。
否定したいということは、本当のことなんだって。
「ごめんなさい。だから秋月はあなたに全てを語りたくなかったんだと思うわ。でも、わたくしはあなたに全てを知ってもらいたいの。彼が選んだ道を」
「……うん。分かってる。話して」
「ええ」
トリィも、語るのに覚悟がいるんだろうか。気づくとカップを持つ手が微かに震えている。
そうだよね。トリィだって秋月の言うことに背くのは嫌なんだ。なのに話をする気になったのは、あたしのためでもあるのかもしれない。
まあ、最終的には秋月のためってことなんだろうけど。
それでも、話そうと思ってくれるほど、少しは気にしてくれているんだ――と思いたかった。