第9話 世界の下で

 人界において二十年に一度の大祭が訪れた。世界の中心である柱の国は人々が集い賑わう。その人数は五年ごとの祭りの比ではなかった。どこもかしこも人が溢れているような状態だ。
 王宮でも開いている部屋がないほどの来賓の数で、王であるアルベールは休むまもなく次から次へと指示を仰ぐために臣が訪れる。
 そんな中、王宮の一角だけは静かな時が流れていた。

「やっぱり人界の日差しが丁度いいわ」
「本当に。慣れたと思っていても、やっぱり違うって思いますね」

 のんびりとお茶を飲みながらそんな会話をしているのは、柱の国の元姉妹姫――現在は天界、地界を治める支配者の妻だった。

「マリアは天界に慣れた?」
「はい、ユリア様が大切にして下さってくれてますから」
「……」
「お姉さま?」
「いいわねー、マリアは」

 少し不機嫌な顔でクレアトールは白いカップに口をつけた。
 マリアベールは何がクレアトールの機嫌に触ったのか分からずに首を傾げる。

「どうしたんですか、お姉さま? お姉さまだってルシファー様にとても愛されているのでしょう?」
「な、なんでそうなるのよ?」
「だって、お母さまから聞いたわ。ルシファー様にとても愛されていて、クレアお姉さまには、もう赤ちゃんがいるって」
「ぶっ……ごほっごほっ……何を聞いているのよーっ!?」

 飲んでいたお茶を噴出しかけて、クレアトールは慌てて口を塞ぐ。するとすでに口に入っていたお茶に咽て何度か咳き込んだ。

「お姉さま、大丈夫? 体が弱いんだもの、気をつけなければ……」
「マリアが変なことを言わなければ大丈夫なんだけど……」
「私、変なこと言いました? だって本当なんでしょう? それともお母様は嘘を教えたんですか?」

 間違いを言ったのかとマリアベールの表情が見る間に曇っていく。
 クレアトールは慌てて「嘘じゃないわ」と返した。

「本当に?」
「え、ええ。お母さまは嘘は言ってないわ。ただ、ね。マリアがお母さまからすでに聞いていることに驚いてしまったの。ごめんなさいね」
「お母さま、とっても喜んでいらしたの」
「ええ、それは分かるわ。でも、あなたには私から言いたかったのよ」
「そうだったの。ごめんなさい、お姉さま」

 自分から言いたい、というのは半分口から出任せでしかない。ただ、妙な恥ずかしさを感じたせいだ。
 それに周りから見れば新婚と言うのに相応しい二人だったが、それを会う人たちに口々に散々言われ続けため、その手の話はもううんざりという感じだった。

「そういえば、マリアのほうはどうなの?」
「私ですか?」
「そうよ。私より少しだけ早く行っていたし、ミカエル様のお年を考えれば――」

 いい加減話題を変えるべく、前より少しだけ大人びたマリアベールに尋ねる。
 以前と違う様子から、彼女も進展があるはずだ。

「残念ながら、今はまだ口付けだけの清い関係ですよ。貴女方と違って」

 答えたのはマリアベールではなく、式典が終わって二人の元へ戻ってきたミカエルこと、ユリアだった。
 その声に振り返るより先にクレアトールの口元が引き攣る。

「ユリア様、お疲れ様でした」
「ありがとうございます。マリア」

 和やかに会話する二人。
 そして、一緒に来たルシファーことグリフィスも声をかけて欲しいのか、クレアトールをじっと見ている。

「……お疲れ様、グリフィス」
「あ、ああ。ありがとう、クレア」

 声をかけてもらって嬉しそうに返すグリフィスは、まるで大きな犬のようだ。しかも狩猟犬のような躾の行き届いた大型犬を連想させる。
 この姿が騙されたと思うものの、現状を受け入れてしまった要因だ。普段は寡黙で若いながらもしっかりした“ルシファー”だと言われているのに反し、クレアトールの前では彼女の機嫌を損ねないよう、考えながらたどたどしく話す。
 その姿が初めは可笑しくてたまらなかったし、それは今でも変わらないが、それ以上に愛しく思えてしまうのが不思議だ。

「とりあえず座りなさいよ。ユリア様も。それに先程の話をもう少し詳しく教えて頂きたいわ」

 クレアトールは椅子を勧めながら、まだ温かいポットからお茶をカップに注ぐ。
 彼らが来るのが分かっていたので用意していた分だ。

「なんですか、義姉上あねうえ殿」
「……その、義姉上ってのをやめて頂けません?」
「どうしてです? 貴女はマリアの大切なお姉さまなのですから、私が義姉上殿と呼んでもおかしくないでしょう?」
「……確かにその通りですが、年上の、しかも“ミカエル”様にそのように言われると、むず痒くて仕方ありませんわ」

 年の順でいけば、ユリア、クレアトール、グリフィス、マリアベールになる。
 ユリアと一番近いのはクレアトールだが、それでも五歳の年の差がある。その彼に義理とはいえ、“姉”と言われるのは納得いかないものがあった。

「その話でいけば……ミカエル殿と私は義理の兄弟と言うことになるのか?」
「そうですね。しかもやはり私にとってルシファー殿も義兄上あにうえになりますねぇ」
「うわー、一番年上なのによく言えるわー……」

 あっさり肯定してにこやかに笑うユリアに、クレアトールは思わず心に思ったことを口にしてしまう。
 マリアベールが慌てて二人の間を取り持とうとするが、ユリアがそれを制す。

「構いませんよ、マリア。本音で話ができる相手は必要ですから」
「でも……。お姉さまも言いすぎです!」
「だって本当のことだもの。なんて言うか、結婚してからどうしても“騙された”って感が拭えないのよね。大祭でユリア様に会ってからは特に」

 二人の結婚の話はグリフィスのほうから相談されたらしい。が、それはあくまで相談であり、確実な方法を尋ねたわけではなかったという。そうなるよう仕組んだのはすべてユリアだった。
 しかもクレアトールはそれにまんまと嵌ってしまった。未だにあの時のことを思い出すとふつふつと怒りが沸いてくる。特に一昨日、大祭のために人界に来てユリアと直接会ってからは。

「騙すなどと人聞きの悪い。私は皆がいいように、と考えたんですよ」
「……」
「それに、なんだかんだいっても、幸せでしょう?」
「…………ええ。それについては否定しませんわ。私、とっても幸せですもの」

 怒っている相手に幸せか、と尋ねられる神経はすごいものだと思う。
 それでもクレアトールは今幸せだと感じているので、癪だが素直に頷いた。

「それは良かった。ああ、遅くなりましたが、ご懐妊おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」

 懐妊、などと改まって言われて、クレアトールは顔が熱くなった。

「いやあ、それにしてもルシファー殿も頑張りましたねぇ。まさかこの大祭で義姉上殿の懐妊の話を聞けるとは思いませんでしたよ」
「ミカエル殿っ!」
「確かに早めに結婚、出産に持ち込めば、ねちねち文句を言う人が少なくなると忠告はしていましたが……」

 のほほんとした口調でグリフィスをからかうユリアを見ながら、クレアトールは右手に持っているカップを握り締める手に力がこもった。

(こっ、この男……そんなことまでグリフィスに指南してたの!?)

 クレアトールにとってすでにユリアは“ミカエル”などという大それた存在ではなく、可愛い妹を横取りした人物――いや、腹黒タヌキにしか見えなくなった。

「そういえば――ユリア様、先程の話を聞かせて頂けません?」

 クレアトールは努めて笑顔を作り、ユリアに問いかける。

「はい、なんでしょう。義姉上殿?」
「先ほど、マリアとは未だにその……夫婦間でのことがないように仰ってましたが……」
「そうですね」
「なら、まだ貴方と別れても妹は大丈夫ですわね?」

 もちろん結婚したという事実は残るが、そういった関係がない以上取り繕うことは出来るだろう。体の弱い姉のために、などと言って形だけ天界に行ったとでも言えばいい。
 影で何か言われるかもしれないが、マリアベールをこのまま天界においておく方がもっと嫌だと思った。
 けれど、それはマリアベールの言葉で否定される。

「嫌ですっ! そんなの嫌っ!!」
「マリア……?」
「酷いです! いくらお姉さまでもそんなこと言うなんて――」

 急に椅子から立ち上がって、顔を真っ赤にして怒るマリアベール。その姿から、マリアベール自身がユリアのことを思っていることが分かった。
 はじめは驚いて、その後は軽く別れろなどと言った自分を恥じた。
 クレアトールはマリアベールに謝ろうとして。

「……あ、ごっ、ごめんなさい……でも、私……私どうしても……」

 マリアベールも我に返ったのか、急に少しどもりながら椅子に座って謝る。けれど、謝るのは自分のほうだ、とクレアトールは思った。
 俯いて手で顔を隠してしまったマリアベールの頭にそっと手を載せる。

「マリア」
「お姉さま……」
「ごめんなさいね、マリア。あなたがそれほどユリア様のことを思っているとは思わなくて」

 やっとマリアベールが顔を上げてくれると、クレアトールは素直に彼女に謝った。

「マリアが幸せならそれでいいの。でも、急な話だったし、その……そういうことはまだみたいだったから、心配なところもあって――」
「そんなことないです。ユリア様はとても大事にしてくださって……。ユリア様はゆっくり変わっていけばいいと……だから私に合わせてくれているだけなんです」
「そうだったの」

 確かにマリアベールが嫁いだのは十五歳。結婚するには少々早い。そのマリアベールのために合わせてくれていたのか、と思うと、ユリアのことを見直した。
 けれど彼はそんなに大したことをしているわけではないという。

「私は大事なものは、ゆっくりしっかり確実に手に入れる性格なんです」
「ああ、なんとなく分かります。ユリア様ってそんな感じですよね。いい、悪いは別にして」
「分かっていただけますか? 反対にルシファー殿はやっぱり若いですねぇ。情熱だけで貴女を手に入れてしまいましたし」

 ユリアは矛先をグリフィスに向ける。
 逃げたな――と思わないでもなかったが、いつまでも恨みがましく続けていると、マリアベールを悲しませそうだったのであえて流した。

「まあそうですね」
「それは……今思うと確かに急すぎて悪いとは思ってる」
「本当だわ」
「でも、やっぱり後悔はしていない。それに――」
「それに?」
「先程、ミカエル殿の問いに幸せだと答えてくれたのが、クレアの気持ちなのだと思っている」

 真面目に答えるグリフィスに、クレアトールは頬に熱を持つのを感じた。
 確かにクレアトールは今とても幸せだと思っている。閉ざされていた未来は開き、望めなかった結婚や新しい家族を持つことができる。
 少々強引なやり方での結婚だったけれど、相手がグリフィスだったせいか後悔はしていなかった。

「私は幸せよ。貴方のおかげでね、グリフィス」

 心のこもった笑みをグリフィスに向ける。するとグリフィスまで顔が朱に染まる。

「いやいや、若いってのは本当にいいもんですねぇ」
「そういう年寄りくさいことをいっているユリア様が、この中では立場的に一番下だと自覚してくださいね」
「おや、覚えてましたか。なら義姉上殿と言っても構いませんか」
「けっこう物覚えはいい方ですから。でも義姉上殿はやめてください。名前で結構ですわ」
「そうですか? では、クレアトール義姉上と呼ばせて頂きます」
「ですから、義姉はやめて下さいと――」

 クレアトールはからかわれているのが分かっていたけれど、それでも反論してしまう。
 今まで近くにいなかったタイプの人間でもあったし、また他人と会話をするという楽しさを覚えた今では、そんなやり取りさえも楽しいと思えてしまうのだ。

「お姉さま……ユリア様とお話が弾むんですね」
「確かに。ミカエル殿の性格は知っていたけれど、クレアトールがここまで話をするとは思わなかった」
「ユリア様も私とは違うようなところを見せてくれますし。本当はお姉さまの方が……」

 蚊帳の外にされた二人が互いにぼそりと呟くのが耳に届く。
 クレアトールは慌てて否定した。
 ユリアもマリアベールに誤解されるのは嫌なのか、同じように即座に否定する。

「そ、それは誤解よ。ユリア様のようにいろいろ言える人は珍しくて……だってグリフィスはあまり沢山言うとすぐに謝ってしまうんだの。もう少し色々言ってくれてもいいくらいだわ」
「そうですよ、こうして気軽に話ができるのはマリアのお姉さんだからです。それに一番大切な人に対してそんなことは言えませんよ、マリア」
「あら、なら私には言ってもいいってことですね、ユリア様?」

 軌道修正を試みるも、ユリアの余計な一言でクレアトールはまた元の状態に戻ってしまう。

「ですから、身内だから気軽になれるというか……ですね。貴女も誤解されたくないのならきちんと否定してください」
「それはユリア様が余計なことを言うからですわ。だからマリアがちゃんと大事にされているのか心配になるんじゃないですか」
「もちろん、大事です。ですからこうして時間をかけて愛情と信頼関係を築いているんです」

 びしっと宣言したユリアに、クレアトールよりもマリアベールのほうが恥ずかしくなったようで。

「あの……お願いですから二人ともそれくらいにしてください。お姉さま、ユリア様は本当に私のことを大事にしてくれています。それは分かってほしいの」
「それは……分かっているわ」
「だったらもうこれ以上口論をするのはやめてください。それよりも赤ちゃんが生まれるのはいつ頃なんですか? その頃には人界ここに来れますか? ユリア様、私も戻ってきていいですか?」

 出産といってもまだ半年近く先のこと。少し前まで悪阻で苦しんでいたクレアトールと、それを見ていたグリフィスはそんな先まで考えるゆとりがなかった。
 そのため急に訪ねられて困ってしまう。
 だから、マリアベールの問いに答えるのに間をおくと、その隙にユリアが口を出す。

「それはきっとここに戻ってきて出産――でしょう。お母さまがいらっしゃればクレアトール義姉上も安心できるでしょうしね」

 確かにユリアの話は説得力がある。
 はじめての出産に、実の母親がいて、馴れ親しんだ場所なら安心できる。
 とはいえ、勝手に決めるな、という反発心のほうが先に来てしまう。

「あの……」
「それは……」

 口ごもりながら、まだしっかり決めていないことを言おうとした瞬間。

「そうですね。ですよね? お姉さま、グリフィス様。赤ちゃんが生まれる時は戻ってくるんですよね?」

 きらきらと目を輝かせたマリアベールに見つめられて次の言葉が出ない。
 天然はある種最強だ――とクレアトールは感じる。

「ルシファー殿はきちんとお考えのつもりですよ。その時にはここに来ましょうね。甥か姪かまだ分かりませんが、マリアも早くみたいでしょう」
「はいっ」
「そうなると臨月辺りから来ている方がいいでしょうね。あと、生まれてすぐに界の移動は子どもの負担になりますし――当分、義姉上はこちらにいらっしゃるでしょうね。ふふ、ルシファー殿は当分一人寂しい思いをしなければいけませんねぇ」
「まあ、それは気の毒です」
「でも愛しい妻と我が子のためを思えば、きっとそれくらい頑張れますよ」

 優しく諭すように言うユリアに、それを信じるマリアベール。
 その様子を見ながら、クレアトールどころか、グリフィスまで同時にここにタヌキがいる――と思ったのは仕方ないだろう。
 全てはこの男の段取りどおりになったのだから。

 ユリアはグリフィスの頼みを聞くのと同時に、クレアトールの命を助け、そして自分が好きになった女性を手に入れた。そして今もその愛情と信頼を勝ち取るために、未だに色々な手を打っている。
 マリアベールは気づいていないようだが――
 それでもなんだかんだ言っても、大祭の間、四人は昔からの知り合いのように打ち解けた時間を過ごした。

 ***

 結局、出産に関してはユリアの目論見とおりになった。
 マリアベールは姉が人界にいるのが嬉しくて、ユリアに許可をもらい、かなり長い間の里帰りになった。
 要するに、ユリアもグリフィス同様一人寂しく過ごすことになり、自分の首まで絞めていたのに気づいたのはその時だったという。
 久方ぶりに人界を訪れたユリアを見て、クレアトールはしてやったりといった顔をする。グリフィスにまで同じような顔をされて、かなり落ち込んだとマリアベールから聞かされた。
 とはいえ、気の毒だと思えなかったのは二人とも内緒だ。

 四人は住む界は違えど同じ世界の住人。
 その後も何かあればすぐに人界に集り、柱近くの庭園で仲良くお茶をして過ごしたという。

 

 

あとがき

なんとか終わりました。いろいろあって、一年くらいかかったような…(汗)
最初はお題で書いてみよう、と思って探してみたんですが、しっくりくるのがなかったので自分でタイトル考えて。
これだけはきちんと話数とサブタイトルを決めて進めたものだったりします。

主人公(?)は一応クレアトールとマリアベールのニ人です。
姉妹でまったく違うような恋をした、というような感じで書きたかったのです。
でも気づくとクレアトールのほうがメインになってしまいました。
そしてユリアの性格がなんか……さわやかさがどこかに吹き飛んだ気がします(遠い目)
ちょっと当初考えていた話とはズレましたけど、ある程度は筋道どおりに進んだのとなんとか完結できたので、と個人的には満足しています。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。

2008.6.7 ひろね

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