暗い室内の中は、ろうそくの小さな炎がいくつか揺らめいている。
もともと地界は薄暗い世界だが、今は夜明け前なのでこの小さな炎がなければ真の闇になるだろう。
けれど、部屋の主は二人とも眠らずにいた。
「……詐欺だわ、貴方があの子だったなんて」
広い寝台の上に力なく横たわっているクレアトールは、少しきつめの視線を“ルシファー”に向けた。
その視線にルシファーがたじろぐ。けれど、その表情は強張ったまま。彼もどう答えていいのか迷っているようだった。
少し視線をずらした後、小さな声で言い訳するように答え始めた。
「貴女は……私を見ても全く気付かなかったので、言いにくかったんだ……」
「そりゃ気づくわけないでしょう。あの子はこんなに小さくて髪の毛だって茶色だったし、肌の色だって……」
「ちょうど成長期前だったんだ。あのあと急に背が伸びた。それに、この肌と髪の色は“ルシファー”を継いだ時に変わった」
「変わった……?」
クレアトールはルシファーの話の展開についていけなかった。
成長期前だというのはまだしも、肌と髪の色が変わるなど、とうてい信じられない。もちろん髪を染める薬がないわけではないが、“ルシファー”になるのに必要とも思えない。
それに、その説明も何もなく三日間の婚礼に続き、その後想像不能な展開に進んだ。
全てが終わってから説明するのは少々卑怯な気がする。
「とりあえず……きちんと説明してちょうだい。なんでこんなことになったのか。それより、一番聞きたいのは、貴方が本当にあの子――グリフィスなの?」
あの子――クレアトールのいた庭に落ちてきた子はグリフィスと名のった。
目の前の青年と、あの子との共通点は、ぶっきらぼうだけど優しいところがあるくらいだ。他に共通点が見当たらない。あの時はどの界の者かも聞いていなかった。
だから一番に確認したかった。
「ああ、覚えていてくれたのだな。嬉しい」
無表情だったルシファーの表情が、子供のように無邪気な笑みに変わる。
その変化にクレアトールも驚いた。
「じゃあ本当にグリフィスなのね? ならどうしてこんな無茶なことをしたの?」
先程のことを忘れて、クレアトールはグリフィスに詰め寄った。
「あの…申し訳ないがもう少し離れてくれないか」
「……きゃあっ、ごめんなさいっ」
先程まで横たわっていたため掛布が体を隠していたが、起き上がった拍子にずれて肌が見えてしまっていた。
慌てて掛布を戻してから、「見たわね」という恨みがましい目でグリフィスを睨む。
その後、今更のような気がした。
「……って、貴方今さらじゃないの。あんなことしておいてっ!」
「う、それはそうなのだが、さすがに急に見せられると理性が……」
「文句が多いわね。ほら、もう隠しているから大丈夫よ。それより早く説明してちょうだい」
半ば責任のなすりあい、子供の喧嘩のような言い合いをした後、クレアトールは先を促す。
ルシファー――グリフィスは小さく息を吐いた後、たどたどしく語りだした。
「四年前の祭りの時、先代のルシファーに連れられて数人が人界に訪れた。その者たちは次代のルシファー候補で、私はその中の一人だった」
「そう、だったの」
「でも宴は大人の人ばかりだったし、当時の私は候補といえ最年少でほとんど相手にされず、つまらなくて思い切って外に出て――」
「庭に落ちて私と会った、のね?」
確認するように尋ねると、グリフィスは素直に頷いた。
あの頃のクレアトールは自分の寿命を考慮し、公の場に出ることはなかった。だから祭りに候補の者も入っていることも知らなかったため、あの時の子は、人界のどこかの国の王子か何かと思っていた。
「知らなかったわ」
「あの時は名前しか名乗らなかったし、“ルシファー”を継いだことで髪や肌の色も変わった。だから、分からなくても仕方がないと思う。でも、地界に来た時に全く気づいていないようで、本当は……かなりショックだった」
「……」
クレアトールはどう答えていいか分からなかった。
もちろん、「分かるわけないでしょ」と答えるのは簡単だ。けれど、あの子のことを覚えていないわけではなかった。
あの時のことはクレアトールにとっても、とても大事な思い出だったのだから。
「あの時のこと……忘れているわけじゃないのよ。でもあの子が貴方だなんて、全然分からなかったのよ。だって、あの時とあまりに違いすぎるんですもの。一言あの時言ってくれれば、私だって――」
そこまで言って、それから今思えば、お互い言葉が足りなかったと改めて感じた。
地界に降りて初めて顔を合わせた時、多少の会話をする時間くらいあった。
あの時にその話を――それ以外でも普通に会話をすれば、少しは互いの気持ちが理解できたかもしれない、と。
「済まなかった。ただ、今回の婚姻に関してはかなり強引なやり方だったので、その辺りも含めて怒られると思った……」
(怒るって……私ってどう見られていたのかしら?)
クレアトールは眉をひそめたが、四年前のやり取りはやはり年の功なのか、クレアトールの方が強かった。
当時のグリフィスはやんちゃな子どもで、そんな彼の言い分を口で負かした覚えがある。その時の印象のままなら、いきなり文句を言われそうだと言われても仕方ない。
実際、父親にはかなり文句を言っていた。過去を振り返って、自然に視線がさ迷った。
「そ、それは怒りたかったわ。だって話が話なんですもの。でも、顔合わせの時にいきなり怒りだすほど礼儀知らずではなくてよ?」
「分かっていても、不安だった」
「それなら、せめてきちんとした結婚の申し込みをすれば良かったのに。怒りたくなるの、当たり前でしょう?」
どちらでも、などと言われれば、彼らにとって欲しいのは“人界の柱の国の姫”であり、クレアトールやマリアベール自身だとは思われない。
それに先に年齢のことを聞いていて、互いにあった年齢の方を選んでいたらどうなっていたのか。聞いていたのなら、クレアトールが天界に、マリアベールが地界に行くことになっただろう。
「それは……実は怒らせて判断を鈍らせるという手で……」
「なんですって!?」
「だから……最初に私たちのことを聞いていたら、多分、クレアトールが思っている通りになったと思う。なので、ミカエル殿に相談した所、あのようにすればいい、と」
「なによ、それは!?」
聞けば聞くほど、怒りの度合いが高まっていくのは気のせいか。
クレアトールは声を荒げてグリフィスを睨んだ。グリフィスはその容姿に似合わないビクビクとした態度で少しずつ語る。
四年前のクレアトールが印象的だったこと。
それまでルシファー候補とは名ばかりで、なりたいとは思わなかったけれど、クレアトールのためにルシファーになろうと思ったこと。ルシファーなら、堂々と人界の国の姫にも結婚の申し込みができるから。
結婚の申し込みはミカエルと相談した所、どちらでも、と言って煽ればいいと。そうすれば、彼の知るクレアトールなら間違いなく地界を選ぶだろうと推測したこと。
大事な妹を地界へ行かせようとはしないだろう、と。
聞いていて口元が引きつりそうになったが、確かに彼らの想像通りの振る舞いをしたのは確かだった。
すべては彼らの望むまま――
「年齢のことを考慮すれば、ミカエル殿がクレアトールに、私がマリアベール姫にというのが妥当になる。けれど、それでは駄目だったのだ」
「なんで?」
「いくら天界といえど、弱い貴女の寿命を延ばす薬はなかった。逆に光が棘のように突き刺さり、寿命を縮めるだろうとミカエル殿は言っていた。一番確実な方法は、闇に強い耐性を持ちそれを受け継ぐルシファーの力――闇に近いこの界で生きていけるだけの力なら、貴女の寿命を延ばすことも出来ると」
だからクレアトールが地界を選ぶように仕向けた。
クレアトールはグリフィスの説明を聞き、やっと理解できた。
「どうしてあんな話になったのかやっと分かったわ。でも、マリアベールまで巻き込むことはないでしょう?」
「それが……」
自分のためにそこまでしてくれたのは嬉しい。けれど、妹を巻き込む必要はない。
おっとりとした妹は、別の世界でちゃんとやっていけるのだろうか。家族に会えなくて寂しくないだろうか。その時になってやっと、天界にいるマリアベールのことまで考えられるようになった。
「マリアは大丈夫かしら……」
「それなら心配はない。ミカエル殿が大事にしてくれるだろう」
「本当に?」
「ああ、ミカエル殿も四年前にマリアベール姫を見て気に入ったと言っていた」
「そうなの? なら安――」
話の内容を聞いて安堵すると同時に、突然ふとあることに気づく。
「もしかして、ミカエル様ってロリコン!?」
確か二十四歳と聞いた。マリアベールは十五歳だ。その年の差は九歳。しかも四年前といえば、マリアベールは十一歳のはず。まだかなり幼かった印象が残っている。
クレアトールが驚いても仕方ないだろう。
が、その言葉を聞いて、グリフィスは顔をしかめたあと頭を軽く左右に振った。
「……クレアトールは博識なのか疎いのか分からない」
「は?」
「どうして結婚することの意味を知らないで、ロリコンなどという言葉を知っているんだ」
「ええとそれは……確か何かの本で読んだときに出てきたから覚えていて――でも結婚って、たいてい結婚式でめでたしめでたしで終わるんですもの。その直後って見たことなかったのよ?」
物語の続編があっても、その時には子供がいて家族が増えているというのが多かった。
それにクレアトール自身が結婚は出来ないものと思っていたため、あえてそのことを追求しようとは思わなかった。
「でも、これで結婚したのでしょう? ならもういいじゃない。確かに貴方にはちょっと迷惑かけたかもしれないけれど」
怖くて泣いて、グリフィスを困らせたことを思い出して、クレアトールは視線をそらした。
「……確かに結婚するということがどういうことか分かってもらえたようだが、これで終わりではないのだが……」
「え?」
「その、先程のが何のためのものか、分からないようなのだから……」
グリフィスの歯切れの悪い言い方に、クレアトールは理解できずに首を傾げた。
確かになんのため、と言われると分からなかった。
「やはり……」
「じゃあなんなの?」
「ええと、子供を作るためであって……」
「子供?」
「そう。で、一度でできるとは限らないわけで、その……」
「出来るまであれをしなければならない……ということ?」
知らないことへの恐怖と、純粋に痛みと。それを何度繰り返せばいいのか。
先ほどの行為を思い出して、クレアトールは小さく身震いした。
「ええと、このままここでずっとというわけではなくて……それに痛がっていたけれど、少しずつそれはなくなってくるらしいし……」
「そ、そうなの?」
「はっきりとは言えないが」
「でも、あれは……」
痛くてもうしたくない、というのが正直な感想だった。
しかも、いまだに体に違和感が残っている。
「だが、貴女も、貴女の母上がそうして頑張って、生んでくれたのだが……」
「……」
グリフィスは頬どころか耳まで赤く染めながら、「なんで男の自分がこんなことまで説明しなければいけないのか」とぼやく。
それを聞いて、クレアトールも自分の無知さに恥ずかしくなって、同じように耳まで真っ赤に染め上げた。