口の中に血の味が広がり吐き気を誘う。
けれど、声など上げたくなかった。だから必死になって唇を噛んで耐えた。
「初めてだったんだな」
セランは私の髪を撫でながら少し意外そうに言う。
そうでしょうね。後宮にいるし、セランに対しても、情報との取引に使おうとしたくらいだもの。経験があると思われても仕方ないわ。
でも意外そうな声がなんとなく癪に障る。
「……見ての通りよ」
見れば分かるでしょう? とばかりに、体を横たえたまま睨みながら呟いた。
「まあ、経験あるとしても、慣れてなさそうだったし」
体がだるいのと、セランとの不毛なやり取りをする気になれいのとで、不機嫌な顔を隠さなかった。
遊びなれていると思われたことに対して苛立っているわけではない。苛立った原因は、まったく逆だった。セランとの駆け引きを、軽く考えていた自分に腹が立った。こんな風に、ちょっと力を入れただけで、セランは容易く私を押さえてしまった。
それは、王にも言えるんでしょうね。もしかしたら、そういうのも教えてようとしていたのかしら? ……って、ちょっと買い被りね。
外から入ってくる光が赤く染まっていて、もう夕方なのだということが分かる。早く戻らなくてはいけないのに、体が言うことをきかない。それをいいことにセランは私の髪を撫でたり指先で絡めたり、と好き放題にしている。
「男を侮ってないか?」
「……どうかしらね」
「もしそうなら、墓穴掘るぞ」
「……もう掘ってるわ。気にしないで」
確かにセランの言う通りなので、何も言い返せない。それに、先程同じことを思っていたんだもの。
私は貴族の娘で、そんな私をぞんざいに扱う人はいなかった。没落してからもそれはなかった。その後も一番長く側にいたあの人も奥さんを大事にしていて、私に対してそんな風に出ることはなかった。
また困ったことにセランはあの人に似ているため、うっかり油断してしまうのもあるかもしれないわね。
どちらにせよ、駆け引きを持ちかけたのは私。
だから、仕方ない。危険だと思っても、セランからしか得られない情報があるかも――と思って誘いに乗ったのだから。そして上手く躱せなかったのは、セランの言うとおり、どこかで逃げられると高をくくっていたせいだもの。
「少しは気を変える気になったか?」
「何が、よ」
「シェルが企んでること」
「……」
「あんなのでも、死ねば悲しむ人がいるんだ。シェルは……そんなことを望んでいるわけじゃないんだろ?」
セランの説得は至極当然な話だった。誰かが死ねば、誰かが悲しむ。あの王だって、死ねば母であるルイス様が悲しむことになる。
でも……でも、それだけで譲れない。
それよりも、セランの説得は私にとって火に油を注ぐようなことだった。
「余計なことをすると思ったら、そんなことを言うためなの!?」
今まで突っ伏していた体を無理やり起こしてセランを睨みつけた。
「シェル?」
セランはきっと全て知っている。
私が彼らの教育係りだったフェザー伯――アルバート・フェザーが私の父だということを。その父を殺された復讐のためにここに来たことを。
彼なりに、止めさせたいという気持ちも分からないわけではないの。前に言ったように、成功しても失敗しても私に明るい未来はない。
それでも、私にとって残されたたった一つの目的であり、これまで生きるための糧だった。
だから、これだけは絶対に譲れない。
「あなたに何が分かるのよっ!?」
気づくと我慢できずに叫んでしまった。
「父が殺されて何もかも失ったわ! 家族を、居場所を、婚約者さえ残った私を反逆者の娘として切り捨てたわ! ええ、保身を考えれば当然のことでしょう。でも、一度に何もかもを失ったこの気持ちがあなたに分かるの!?」
畳み掛けるように言い放った後、セランを思い切り睨む。
四年前、私は全てを失くした。
父が殺された、それだけで。
母はその事実に耐え切れずに追うように自殺した。お兄様は父の無実を自分の命で証明しようとしたけれど及ばず投獄された後、獄中で何者かに殺された。お姉さまは結婚していたけど、一方的に相手の家から追い出されて、悲しんでばかりで弱って亡くなった。
私も婚約破棄を言い渡された。けれど、死を選ぶ気にはなれなかった。死んでどうにかなるなら最初からそうしている。
けれど私の家族は私を残して皆死んでしまったのに、何ひとつ変わらない。分かっている。死んだら何も出来ないことを。
だから私は生きて復讐することを誓ったのだから。
「今の私に残っているのは、あの男に復讐しようという気持ちだけよ!」
それだけが私を生きることにしがみつかせている。
それさえ失ってしまったら、私の生きる理由をなくてしまいそうよ!
「綺麗だな」
この気持ちが分かるものか、という気持ちで睨みつけていると、セランがふとその場にそぐわない感想を口にする。
「…………………………………………は?」
やっと口にできたのはこれだけだった。
「いや、やっぱり美人ってどんな仕草や表情なんかもサマになるもんだなぁ、と。凄んでいる表情もそそるなぁ」
「あなた……私の言ったことを聞いているの?」
「聞いてる。まあ、俺なりに止めたかったけど、シェルの気持ちは分かった。んで、今はそれを口にしているときのシェルの表情に関する素直な感想」
この男は……まったく食えない人物だわ。というか、何を考えているか分からない、という方が正確かしら。
止めたいのか、私を試したいのか、よく分からない。
「あなたが……何をしたいのかまったく理解できないわ」
「まあ、俺は俺なりに考えて動いているだけ。母上が悲しむのは見たくないし、シェルにも揺らぐくらいならやめて欲しいなって思ってた」
「……」
「でもこれくらいじゃあ揺らぎそうにないみたいだし。逆に熱烈な告白にちょっと感激したな。俺相手じゃないのが残念だけど」
人を殺す、殺さないという殺伐とした会話のはずなのに、どうして熱烈な告白だの、自分じゃないのが残念だと言えるのよ?
聞いていると、なにやら頭を抱えたい気持ちになるのは気のせいかしら……。
「本当に……俺が王だったら、シェルは傾国の美女になるだろうな」
「はい?」
「のめり込みそう、ってことさ。そう評してもいい顔をしてるし、何より他の貴族の令嬢とよりいると楽しいしな」
そう言うと、セランは私の顔の輪郭をなぞるように頬からあごにかけて手を滑らせた。
「……あのねぇ、人を悪女の代名詞みたいに言わないでくれない?」
「え、嫌なのか?」
「嫌よ」
「すげえ褒めてるんだけど。『超美人』ってことだろ? そういうのって女にすれば最高の褒め言葉じゃないのか?」
何を言い出すとかと思えば、何が『傾国』よ。
君主がその女に溺れて政治を顧みず、国を傾けてしまうほどの絶世の美人――なんて言われるけど、私個人としては傾国という言葉に余りいい意味合いは感じない。
彼にしてみると最高の賛辞らしいが、意味を考えて言ってほしいわ。褒め言葉として取れないのよ。
「どこが、よ? 確かにそれほどの美人に使われる言葉かもしれないけど。でも溺れるのは勝手だけど、国が傾くのは公務をほったらかしている王のせいじゃない。それを女のせいにされたら堪らないわ」
「そんなもんか?」
「他の人は知らないけど……私としては、私のしたことじゃないことまで私のせいにされているようで嫌なの。国が傾くのは王の責任じゃないの」
自分のプライドが高いのは承知している。
それでも私がしたことなら言われても仕方ないし、また責任を取ろうと思うわ。でも勝手に溺れて自分のやるべきことを蔑ろにしている王のことまで責任を持つ気はない。
そして『傾国の美女』と言われた女性は、後世までいろんな意味を含めて話のネタにされるのよ。
そんなの冗談じゃないわ。
「……訂正。ただ綺麗なだけじゃないんだな。男に生まれていれば、かなり出世できただろうにな」
「は?」
「復讐だけとか言いながら、周りとの関係も考えてるし。普通に貴族の跡取りとして生まれていれば、活躍できたんだろうなーと」
「ほっといてよ!」
それは自分でも思ったわよ。男だったら貴族の一員として、普通に城に入ることができる。地位が低くても正々堂々と。地位なんて実力をつけて上りつめていけばいい。時間はかかるけど、逆に逃亡までを綿密に考えることができる。
でも女である以上、城に入るには後宮に入るしかない。
その後宮でも王には無視され、ちょっかい出してくるのはこんなのだけで……考えていたら虚しくなってきたわ。
「ホントにいい女だよな。このまま見殺しにするの、惜しいほどに」
「お世辞は結構よ。それにもう決めたことですもの。あなたが気に病むことはないわ」
言うことだけ言ってそっぽを向く。
そして、そろそろ退いて頂戴――と言おうとした瞬間だった。
後ろから手が伸びてきて、抱きしめられる。首筋にセランの吐息がかかる。
「本気になった」
「……え?」
「本気になった、って言ってる。このまま見殺しにするのは惜しいから、本気で止めるし、本気でこちらを向かせようかな、って」
「なっ! ……あっ!?」
後ろから抱きしめられたままのしかかられて、力なく柔らかい寝台にうつ伏すように倒れる。
そして、すぐに項から背中に舌が這うのが感覚で分かる。同時に足の付け根にも手が伸びて、まだ違和感の残るそこに触れる。
「……っ、ぁあ……」
先程の余韻のせいか、その感覚に体が反応する。一度目と違ってあまり抵抗なく彼のものを受け入れる。
私の意志とは関係なく、痛みと快楽がない交ぜになったものに支配された。