まだ優花が小さな頃のこと。
幼馴染の慎一が、上級生の一方的な言い分に我慢できなくて、口げんかになったことがあった。しまいには手が出るようになり、慎一が殴られるのを見て思わず間に入ったことがある。
その時優花は慎一の代わりに殴られて、すごく痛い思いをした。
あとから駆けつけた先生によって上級生が諌められ、慎一と優花に謝罪するという形で終わった。
その後、家に帰ると母親がよく頑張ったねと褒めてくれた。怖いけど勇気を出して自分の意見を言うのも必要だとも。その日、母親はすごく優花に優しくしてくれた。
夕食時に、慎一と慎一の両親が優花の家に来て、深々と頭を下げた。あれほど強がって上級生に向かっていった慎一も、優花の頬を見てごめんと泣く。
そんな慎一の姿を見て、もう無茶しないでねと返した。
***
「――ってことがあってね。その頃からかなぁ、周りのことや自分のことを考えて動くようになったのって」
優花はどうして力を持ってはいけないのか、それを説明するために自分の過去を話していた。
けれど、ベルディータにはそういう気持ちを持ったことがないのだろう、いまいち理解できないといった表情をしている。
「なんでそう思うのか分からん。なぜ優花が周囲に気を配らねばならないんだ?」
「だって殴られたとき痛かったし。もう同じ目に遭いたくないと思ったし、やっぱり同じようにシンちゃんにも痛い思いをさせたくなかったから」
「なら、その幼なじみに近づかなければいいだろうが」
「そう言うけどねぇ、家は隣同士だし同じ学校だし、それに悪いことばかりじゃないよ。シンちゃんはちゃんと謝ってくれたし、それからはわたしが本気で止めようとするとやめるようになったし」
眉間にしわを寄せたベルディータを見て、彼は長い間一人で術式解除にあたっていたため、こういった人との関係を忘れているんじゃないかということに気づく。
それにしてもどんな思いで数百年もの間一人で術式と向かいあっていたんだろう。一部とはいえ人が起こした災いを、別の種族である彼が一人で背負わなければならない理由などない。
それなのに、彼はただ一人北の森で術式を相手にして――そこまで考えると、ベルディータの過去がとても重い気がした。
「ユウカ?」
「え!?」
「いや、いきなり黙ってしまったからな」
心配そうに見ているベルディータに、優花は「ごめんねー」と気軽に返す。
同時に先程の話は一方的に迷惑を被っていたわけではないと付け足す。大変な時はいつだって手を差し伸べてくれる。だから一緒にいられる。
どちらも一方的な関係ではないから。
「そんなものか?」
まだしっかり納得できない顔をしているため、優花は肩を竦めて笑った。
確かに人と関わるといいことばかりではないこともあるにはある。
皆が皆、優花のことを理解してくれるわけではない。そういう場合は遠慮なく「とろくさい」とか言われる。
でも何かを皆でしていれば、自然と互いに理解してくる。互いに得意なもの、不得意なものを理解すれば、協力してできる。
そうして何かをなし終えた後は達成感で満たされる。
「皆で頑張ったね! って言うのが嬉しいんだよ。お互い歩み寄れば分かり合えることが出てくるもん」
「そうか……。で、それがどうして力が要らないというのに繋がるんだ?」
「う、ベルさんしつこい」
「気になるからだ」
力を持つという点において、ベルディータと優花は重なることがないほど、遠くかけ離れた価値観だった。
だからベルディータは優花の言うことを理解できないのだろう。いや、分かっているのかも知れないけれど、納得がいかないのだと思う。
だから一つずつ説明しなくてはならない。でもそれも分かり合うためのものだと思えばいい。
優花は今までのことから、魔物のことに話を変える。
「えと……それで、わたしが感じていたような気持ちを魔物からも感じたの。だから、わたしはさっき『そういう気持ちだってあるよ』って感じで言ったの。だってわたしも持ってるものだもん」
「ほう」
「言葉では説明しづらいけど、多分魔物のほうは自分の存在を認めてもらったって思ったのかなあ、って。それってわたしが友だちから『頑張ったね』って言われた時とすごく似てる気がするんだ」
優花は嬉しさと照れを浮かべた表情をする。
彼女にとって友だちは大事な存在だから、その大事な存在に自分を認めてもらうと嬉しかった。
たぶん魔物はそれと同じようなものを感じてくれたのではないかと。
「そうすると本当に嬉しいんだよ。安心できるの。自分はこれでもいいんだって」
「なるほど」
「でもね、そういう小さな嬉しさって、大きな力の前では消えちゃいそうで怖い。わたし、そういう気持ちを失くしたくないんだよ……」
ベルディータもファーディナンドも、力を持ちそして辛い過去を知っているため、あまり人を寄せ付けないところがあるような気がする。それに何でも出来るから、頼ることもないのだろう。
でもそれは、沢山の人と一緒にいる場合、とても寂しいことじゃないのか、とふと思った矢先。
「……そうか。私は必要ないのだな」
ベルディータの表情がいつものような自信を窺わせるものから、ふっと迷子になった子供のような心細さを見せた。
「……っ、あのっ! ごめん……ごめんなさい! ベルさんが必要じゃないとかじゃなくて、えっと、その……っ!」
自分が自分であることを大事にしたいと思ったのは事実だけれど、そのためにベルディータを悲しませたことに気づいた。
先ほど自分でも思ったこと――沢山の人と一緒にいる場合のにとても寂しい――それにベルディータの過去から現在の姿が重なる。
優花がベルディータを拒むということは、彼はまだ一人で生きていかなければならないということに繋がってしまうからだ。
そのことに気づいたら、自分のことしか考えていなかったことに恥ずかしくなる。
「必要ないってのは力だけで、ベルさんが必要ないわけじゃないの。それに、必要ないってのは嫌いってわけじゃなくて……でも……」
「ユウカ、もういい」
「ベルさん……」
優しく抱きしめられて、優花は謝るのをやめてベルディータを見た。その表情は先ほどよりも柔らかく感じた。
優しい人だと思う。人に裏切られて傷つけられただろうに、優花を抱きしめる手はものすごく優しい。
ベルディータの傍にいるのは心地いいけれど、まだそういう目で見ることはできない。
いつかそう思うようなときが来るかもしれない。
でも、今でないことは確かだ。
「まったく考え方が真面目だな」
「ベルさん……」
「もういい。ユウカにはユウカの考えがある。自分の思ったように動けばいい」
「でも……」
「ただし、旅には私もついていく」
「………………はあ!?」
未だベルディータの腕の中で、優花は素っ頓狂な声を上げた。
つくづくベルディータの考えていることは分からないと思う。
まあ、数百年も生きてきた人を相手にその心を推し量るほうが難しいのだろうが。
「さ、さっきまですごく反対してたのに、一体どうしちゃったわけ!?」
「ユウカをそのまま一人で行かせるから不安を感じるんだ。一緒に行けば守ることも出来るから、心配する必要がなくなるだろう?」
「確かに言いたいことは分かるけど……術式は? あれ、どうすんの!?」
ちょっと待て待て。自分の仕事を放棄するんじゃない、とばかりに目を大きく見開いてベルディータを見つめる。
「術式はユウカが魔物を消せば自動的に無くなっていくだろうが。核については遠見で確認できる。核自体、周囲の術式があるため、すぐに手が出せるものでもないしな」
「まあ、確かに」
「そうなると、私があそこで術式を見ている必要もなくなるだろう?」
「……そ、そう、かも……?」
反論できず優花は頷くしかない。
確かにベルディータの言うとおり、術式が暴走しなければ側についている必要はないし、旅をしようと思う優花にとっても、ある意味最強のボディーガードになる。
断る理由などない――ような気がする。
「ユウカの側にいると楽しい」
「楽しいって」
「ずっと一人でいたからな。こんな風に楽しい会話をしたのは久方ぶりだ」
「ベルさん……」
「それに、私のことを嫌いではないと言った。ならば気持ちが変わることもあるだろう?」
少しだけ寂しげな笑みを浮かべて、そして、「だから今しばらくは待つとしよう」と。
トドメとばかりに言われて、優花に拒否権はなくなった。
もちろん優花の性格を見抜いた上でのベルディータの言だ。そしてそれを拒否できるほど優花は強くない。
これでベルディータの同行は決定になった。
「……分かった。旅に出ていいならもう文句言わない……よ」
「そうか。それは良かった」
開き直り、そう時には開き直りが必要で、今がその時だ。
旅の連れが無闇に綺麗で存在感がありすぎる人物だとしても。それでも強いからきっと役に立つだろう――そう開き直りたい。
……が、やはりベルディータを連れての旅では、それは無理なことだということは直感で分かる。
優花がどれだけ地味に行きたくても、隣にこれだけ人目を引く人物がいれば、嫌でも人の目に留まるだろう。
「で、できればのんびりとした旅のほうが良かったんだけどな……。ははは……もうなんでもいいやー……」
優花は諦めに似た心境で乾いた笑い声をあげる。
それでも心の中では釈然としない。反対にモヤモヤしたものが広がっていった。