バクバクとうるさい自分の心臓の音を聞きながら、優花は瞑っていた目を開けてベルディータをそっと見た。
青い瞳からは底知れぬ深さを感じて、彼の心を量りかねた。
なぜ、今ここでこんなことをするのだろう?
「どうしても……」
「え?」
「どうしても行くつもりなのか?」
「う、うん。だってわたしが出来るのはそれくらいだし。……ってか、それが今の状態とどう繋がりがある――んっ!?」
答え終わる前にまた唇を塞がれる。今度は口を開いていたため、深く深く口づけられた。口の中に遠慮なく入ってくるベルディータの舌。
可笑しなことに不快とは思わない。でも感じるしびれのようなものは思考を乱し、なんでこんなことになったのかとか考える気力が霧散する。
それでも流されないようと思うのか、ベルディータの服を掴んで必死に残る理性にしがみつこうとする。
「……っ……んぅ」
が、逃げられるわけもなく、唇が離れた後も慣れないための息苦しさと疼くような感覚に力が入らず、そのままベルディータに体を預けたままだった。
いつの間にかベルディータの服を握っていた手は、柔らかい寝台の上に力なく置かれていた。
ぼうっとしていた意識が戻り始めると、いきなり恥ずかしさがこみ上げる。きっと頬が朱色に染まっているのだろう。いや、耳まで赤いかもしれない。
そう思いながら、口元を押さえつつ。
「……ベル……さん。なん、で……?」
「別に問題はないだろう。ユウカが魔物を見たいから連れていっただけで、本来の目的はこちらだろう?」
「ち、ちが……っ!」
「違わない。ユウカは了承した。私から力を受け取ることを」
「……っ! だって説明してくれなかったじゃない!」
説明があったら謹んで……いや、全力で心から辞退した。
けれどそんな説明はなく、ただ力を受け取るかの説明だけだったくせに。
だいたい、千年も生きていたくせに、なぜ自分のような他の人間と大差ない者を選ぶというのか。
いくら話をして心に残る人物だと思ったとしても、ほぼ初対面に等しい相手に体を重ねるなどという行為ができるのか――色々と騒ぎたいところを、優花は恨めしい目つきでベルディータを睨みつけるだけに留めた。
「ユウカの話を聞いて、『そうか、頑張ってくれ』などと言うと思っているのか? この世界がどれだけ危険かを分かっているのに」
「……」
「ユウカのものの見方、考え方はこの世界にとって貴重だ。それを危険なところへ放りだせる訳がない」
「い、意外と大丈夫かもしれない……よ?」
危険、危険と言われても、そういったことに対面していない優花には、ベルディータが言う危険がどれほどのものかこれっぽっちも分かっていない。
反対に今現在のほうが女としては危険な状態だ。
「ほんの少しの危険でも見逃すわけにはいかない。この世界にとって大事な『神』なのだからな」
「う……」
先ほどのやり取りを根に持っているのか、嫌味ったらしく神という言葉を使う。
「そうそう。力がないと言った時、言葉に詰まったようだが、最初の話通り力を与えれば、ユウカは問題なく神としてこの宮にいることが出来るだろう」
「いや、そういう問題じゃなくて……。大体わたしが神様ってこと自体変だし」
「変だと思うなら神だなどと威張るな」
「ご、ごもっともです」
ベルディータの視線が怖くて優花は素直に頷いた。
「まあ、明日になれば力も身につき、言葉に詰まることもなくなるから気にする必要はないな」
(ちょ、ちょっと待ってええっ!!)
もはや優花の頭はパニックに陥っていた。声に出して叫びたかったのに、それは心の中だけで終わる。
異性に押し倒されるなんて初めての経験だし、しかもそれが飛び切りの美形とくると、「こりゃもう夢だね、あははー」と、現実逃避したくなる。
けれど、薄い夜着を通して感じる相手の温もりはあまりに現実的で、夢と開き直るには無理だった。
「ベル、さん……やめて……」
「駄目だ。これ以上ユウカに辛い思いをさせたくない」
「辛いって……でも、このままじゃ変わらないよ! と、とにかくどいてよー!」
必死になって押し返そうとするのにびくともしない。体格差、男女の力の差を考えれば一目瞭然の結果だ。
だからといって大人しくこのまま成行きに任せて最後まで行くのは嫌だ。
近づいてくるベルディータから顔をそむけて逃れようとする。
けれど顎を固定されてしまい、そのまま唇が重ねられる。先ほどと同じようになりそうで怖くて、優花は思わずベルディータの唇を噛んだ。
「……っ」
痛みに驚いたのか、ベルディータの力がゆるむ。
その隙に、優花はベルディータの下から逃れようとしたが、それは叶いそうになかったため、優花は身を守るかのように、体を丸めて固くなった。
「それほど嫌か……ユウカ」
ベルディータの驚く声を聞いて、やっと優花は自分が泣いていることに気づいた。
「あ……」
「それほど嫌だとはな。済まなかった」
ベルディータは優花の上から退くと、固くなっていた優花の背を撫でて緊張をほぐそうとした。
その間も泣いている優花に、ベルディータは軽くため息をついてから、流れた涙を拭う。
「私は……私はユウカに力を与え、宮にいたほうが安全だと思った」
「……」
「だが、ここまで拒否されるとそれも無理だな。ファーディナンドには私から言っておこう。ユウカに神をさせるのは無理だと。元の世界に戻すことはできないが、この世界で暮らせるように手配もしよう」
淡々と事務的に語りだしたベルディータに、優花はただ頭を左右に振った。
「……ぃっ」
「ユウカ?」
「ひどっ……酷いよ。わたし、ベルさんとはまだ今日会ったばかりなんだよ。それなのにそんな重大なこと、すぐに決められるわけないじゃない……っ!」
まだ彼に関してほとんど知らない。知っていることも、さっき聞いたばかりだ。
悪い人ではないということは分かっても、だからといってそんなことは出来ない。
彼自身の気持ちも、おそらくはっきりとしたものでもないだろう。ただ、『力』を与えるのに丁度よく、そして気に入ったから――という程度。
「どうして、わたしの話を聞いてくれないの? 確かにわたしはこの世界のこと、ほとんど分からないよ。だけど、ここにいる以上、出来ることがあるなら何かしようと思ったのに……」
「だが、力あればその旅も楽になるだろう?」
「力……」
「そうだ。力があればここにいるのに問題はない。魔物を探して外に出るのも可能だ。誰もユウカのすることに文句を言うものはいなくなるだろう」
先ほど力づくで押さえられたせいか、『力』という言葉がすごく魅力的に感じる。
たった一夜でいい。この夜だけ我慢するだけで、誰もが羨むだろうほどの力が手に入る。そう思うとベルディータの言葉に惹かれた。
でも、それ以上にここで力を手に入れたら、失くしてしまうものが多いような気もした。
「……駄目。やっぱり力はもらえないよ。たぶん、今のわたしだから考えられたことなんだもん」
「どういう意味だ?」
人並みの、場合によっては並み以下の自分がこんな風に役立つ日が来るなんて、と優花は苦笑しながらベルディータに説明した。
「どうしてヴァレンティーネさんがわたしを選んだのか、全くこれっぽっちも分からないんだけど。ほんっとうにわたしって頭もあまり良くないし、運動神経なんて言ったら泣きたくなるほどないんだよね」
「……何を言いたいのかまったく分からないんだが」
それはそうだ、と思いながら、優花は続ける。
「だからね、神様なんて柄じゃないし、力もないし、それでもなぜか選ばれちゃたんだよねぇ。ほんと、全然わたしに合ってないのに……」
はーっと深いため息をつきながら、優花はここに来てからのことを振り返る。
ヴァレンティーネの意図はわからない。でもここにいるのなら出来ることくらいはしようと思う。
そのためにはベルディータを説得しなければならない。
「でもね、そんなわたしだから、魔物の気持ちが分かったんだよ」
「ユウカには心を読む力があるのではないのか?」
「ないない。ただ漠然と感じるだけ。能力なんて言えるものじゃないよ」
手をパタパタと横に振りながら、優花はきっぱりと否定した。
それではなんだ? とばかりにベルディータは優花を見る。そのため仕方なく自分なりの自己評価を口にした。
「確かに、他の人よりちょっとはそういうところはあると思うよ」
「だから、それが能力なのだろう?」
「違う。わたしは弱いの。身体的に。で、弱者には弱者なりに周囲の状況を読む力は強くなるんだよ。なんていうの、自分に火の粉が飛んでこないよう、その前に逃げるために」
「逃げ……なんとも後ろ向きだな。で、どういう意味だ?」
「後ろ向……まあ、いいけどね」
互いに顔をしかめて数秒。
口火を切ったのは優花だった。
これは小さい頃からの癖で、トラブルの多い幼なじみの傍に居るために、そういったことに対して敏感になったんだろうと話す。
元々そういったものもあるのかもしれない。母も似たようなところがあった。でもそれは特に能力というわけでもなく、自然に身に付いたものだろう、と。
「ま、はっきり言っちゃえば、トラブル回避の防衛策なんだよ。弱いからね、巻き込まれる前に逃げる準備するため……かな?」
「……なんなんだ、それは」
「だから弱いと自分を守るためにも、そういう判断力も身に付いていくの。ベルさんみたいに強ければ、そういうのは必要ないんだろうけどね」
情けないと言うなかれ。そういったことが目の前で頻繁に起こると、かなり切実なのだ。
負けず嫌いな幼なじみは、年上相手にも怯まず向かっていく。殴られても向かっていく。おかげで半泣き状態で何度やめてと叫んだことか。
そうなると自然にその中でどう上手く立ち回れば、自分と幼なじみに被害が来ないかを考えるわけで――まあ、自然とそういうのに気を配るようになったのだ。
「わたしが相手がどう思っているのか分かるのって、その辺から来てると思うんだよね」
「そういうものなのか?」
「まあ、みんなも言うし自分でも力っていうほどじゃないけど、そういうのはあるのかも知れないけど。一応犬や猫……植物なんかの気持ちも何となくくらいは分かるから」
「成る程。で、あそこまでして拒む理由は?」
「……うぅ、直球で聞かないでよ、ベルさん」
先ほどあったことを忘れたいのに、ベルディータの一言であの感覚が蘇る。頬が一気に紅潮するのが分かった。
だいたい出会ってその日のうちに、そういうことを決めてしまえるベルディータの心境について聞きたい――いや、問い質したい。はっきりいってその思考についていけない。
が、とりあえずそのことは黙っておこう。下手に聞くとやぶ蛇になりそうな予感がした。
「えーとね。ベルさんから力をもらっちゃったら、わたしは弱者じゃなくなるよね?」
「まあ、確かに」
「そうなると今の考えは保てないと思うの。自分が弱いから、だから分かるの。でもって弱いから相手のことを思う気持ちもできると思うの」
「そうかもしれないが、別に力があっても……」
いまだに理解しかねるといった表情のベルディータ。
確かに力は魅力的だ。優花も一度ぐらつきかけた。
だからこそ怖いと思う。
「たぶん駄目。ベルさんだってわたしが魔物に近づく時こう言ったよね。わたしが危険なら魔物を殺すって」
「ああ」
「力を持っていると、力で解決しちゃえば楽だって思う気持ちが出てきちゃうんだと思う」
ここまで言って一息つく。
その内容に確かに、といった表情をして黙ってしまったベルディータに、優花は正面からはっきりと言った。
「だからね、魔物を探して今のようにするなら、わたしは力を持っちゃ、いけないんだよ」