優花はベルディータから離れると、魔物のいる方向へと一人で向かう。動くと冷たい空気に、薄い夜着しか纏っていない優花は軽く身震いした。
外は寒かった。聖水鏡宮では何かの力が働いているのか、いつも快適な温度だったが、通常は寒かったり暑かったりするんだろうと今更ながらに気づいた。
それに一歩また一歩と魔物に近づいていくが、その異形さに歩みがだんだん鈍くなってしまう。
見たいと言ったけれど、さすがにあの姿形を目の前にすると足がすくむのは確かだ。
今、優花の目の前にいる魔物は、犬のような四つ足のもの。
けれど犬よりかなり大きく、優花を見据えたその顔から覗く牙は鋭利で鋭そうだ。あの牙で向かってこられたら――と考えると背筋に寒気が走った。
けれど。
なんだろう。不思議な感じがした。
魔物が人に害なすものなら、とうに優花に襲いかかっている。慎重な魔物なのかと思ったが、魔物から殺気などの嫌な感情は流れてこない。
(あれ? もしかして……)
優花は静かに魔物に近づくと、その顔に手を伸ばそうとする。
後ろから「ユウカ!」と叫ぶ声が聞こえたけれど、大丈夫だと思った。ベルディータをのほうを振り返らず、そのままゆっくりと魔物の首筋に手を伸ばす。
「触ってもいい?」
思わず尋ねると、魔物は了承の意味なのか首を少しだけ下げた。
優花はその魔物の首の辺りを、下の方から手を伸ばしてそっと触れる。ふさふさと、そして思ったより柔らかい毛を撫でていると、魔物は気持ちよさそうに目を細めた。
「やっぱり、怖くないよね?」
優花はぼそりと疑問形で呟く。
その声を聞いたのかはわからないが、魔物はおとなしく優花に身を任せている。
それどころか魔物はもっと強く撫でてくれと催促するように、優花の方に頭を押しつけた。
その頭を抱えながら。
「うん。怖くないよ」
怖いどころか、飼い主に甘える犬のようだ。
そして、抱えた魔物から、嬉しいと思う感情が優花に伝わってくる。
(ああ、そうか……)
欲しかったのは、自分自身を肯定するもの。
負の感情から作り出され、否定された存在は、ただ単に認めて欲しいと願っていただけだった。
だから人に近づいて認めてもらいたい。そして人から生まれ、人に帰ろうとする。
生き物の感情に敏感な優花はその気持ちが分かった気がした。
「ずっと待っていたんだよね? でも、殺すため……じゃないんだよね?」
魔物は人を殺すつもりはなく、欲しがっている言葉で救われたいのだと思いたいかった。
優花の気持ちを察したのか、魔物はさらに優花に顔を押し付け、気持ちよさそうにグルル、と喉を鳴らした。魔物の気持ちに優花も嬉しくなって、魔物を抱えて首筋を撫でた。
魔物からはやはり嬉しいという感情しか感じない。その感情だけをもちながら、姿は静かに薄れ存在感を失くしていった。
***
全て消え去った後、優花はゆっくりとベルディータのほうを振り返った。
「あれ、来てたの?」
「……一体……何をやったんだ?」
信じられないものでも見るような目で優花を見つめる。
「何って何も? ただ望んでたことをたまたましただけ?」
「望んでいた?」
「ちゃんとあの子の気持ちがちゃんと分かるわけじゃないけど、でもそんな感じがしたから」
近づいてみて、優花は先ほどの魔物が怖いとは思わなかった。
優花が見る限り、魔物が優花を襲う気がないことは何となく理解できたからだ。
「だからといって……」
「だって、あの子はわたしを傷つけようなんて思ってなかったよ」
「だから、なんで分かるんだ……」
眉間にしわを寄せるベルディータに、なんとなくはなんとなくなんだよ、と優花は笑って返した。
何を考えているかまでは読み取ることができない。でも、どんな感情を持っているかくらいはなんとなく分かる。
それとベルディータからもらった情報を総合すると、負の感情からできた魔物は、正の感情をもらって満たされた時、その仮初の生が終わるのではないのか。
でも、あの姿かたちに驚いて、人は逃げたり排除しようとする。
「魔物はね、きっと、人を襲おうなんて考えてないよ」
「どうしてそんなことが分かる?」
「あの子たちは、ただ単に認めて欲しかっただけ……だと思う」
「認めて欲しかった?」
優花は静かに頷いた。
「うーん……認める、ってわけじゃないと思うけど」
断言できるわけではない。でも、欲しいのはその存在を認めてくれる気持ちだろう。または、その存在を嬉しがってくれることか。昼間の魔物は、認めるというより、傍にいてくれて嬉しいと思ったことが消える元だったようだし。
でも、また分らないことが出てくる。
魔物が生まれるという環境もあるが、魔物自身が抱える感情のことを考えると、少し納得できないところがあった。
そのため優花のほうからベルディータに尋ねる。
「ねえ、ベルさん。人はいろんな感情を持っているんだよ。嬉しいって正の感情ももちろんだけど、負の感情だってあって当たり前。でもここの人って負の感情を溜め込んじゃうんじゃないかな?」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく。神様として話している時も、こんな風に思ってしまった自分でも幸せになれるのか、って聞かれたことあったし」
幸せになれるのかという疑問。
それは裏を返せば、幸せになってはいけないのだと、どこかで言われているような気がしているからではないだろうか。
本当なら『幸せになれるのか』ではなく、『幸せになりたい』になると言うのではないのか。
そのあたりを説明すると、ベルディータは少し考えた後。
「それについては……千年前の妄執みたいなものだろうな。力に固執した人の怨念のようなものがこの世界に残っている。それが人を唆しているところがあるようだ」
「は!?」
初めて出てきた単語に、優花は一瞬話が飲み込めなくなる。
(千年前の妄執? 怨念?)
ええと、と頭の中で整理し始めて、もしかしてその人の悪い感情――例えばそれがほんの些細なことであっても、それに憑りつかれたりするとそれに引きずられて悪い方向へと行ってしまうんだろうか、と考えた。
「えっと、こんな感じで?」
「そのとおりだ。よく理解できるな」
「これくらいは想像でなんとか。じゃあ、怖いって思ったら、逆に魔物は悲しくなるんだろうね」
「悲しい?」
「うん? だってそうじゃない? 認められたら嬉しいんだよ? でも、逆に否定されたら悲しいよね?」
ベルディータに尋ねられて、優花はきょとんとした表情で答える。
「確かに、それはそうだが……」
「認めてほしくて、だから人を探しちゃうんじゃないかな。でも、近付くと拒絶されて……さっきの魔物、撫でただけなのにすごく嬉しそうだったよ? それまで、そんなことが何回かあったのかなって……」
「そう……、かもしれないな」
ベルディータは優花の話を聞いて感心した様子だ。
それにしても自分の考えを一蹴されなくて良かった、とも思う。多分、彼なりにこの世界のことを憂慮して、あらゆる面で改善を試みようと考えている結果だろう。
それが優花のような異世界の住人の言うことであっても、それがいいと思えば試そうとするようだ。
「ベルさんって、見た目より頑張り屋さんなんだね」
「……一体、どうして先ほどの話からしてそうなるんだ?」
「だって、わたしの話をきちんと聞いてくれるもの。この世界が良くなるために、いろんな可能性をまだ探してるんでしょ?」
「まあ、確かにな。それに昼間魔物が消えたせいか、術式が一つ綺麗に消えたせいもあるしな」
「は?」
思わず、何言ってるの? と言った表情をしてしまう。
お互い変な方向から会話が飛んできて、それに対応するのが大変な状態になっている。どうもベルディータと優花では考えにかなりのズレがあるらしい。
互いに考えながら思ったことや、至った考えを口にしているため仕方ないのかもしれないが、そのせいで会話に間が開くのは事実だ。
しばらく優花がきょとんとしていると、ベルディータは苦笑しながら説明した。
「昼間、ユウカの所に来た魔物が消えただろう?」
「うん。いきなり消えてびっくりしたの、覚えてる」
「今までそんなことがなかったため、気になって北の森に確認しに行ったのだ。そしたら周囲の術式一つ分だけ、わずかに隙間ができていた。あの魔物の分の術式が消えたらしい。様子を見ていたが、そこから新たな術式が生まれることはなさそうだ」
「は? 術式が消えた? さっくりと?」
またもや、きょとんとする優花。
でもきれいに消えたということは、きっといいことなのだろう、と考えを改めなおす。
それにしてもたくさんある術式が一つ消えたというのがよく分かるものだと感心してしまう。それだけ長い間見ていたからなのだろうが。
「ユウカの話が真実だとすると、魔物は満足して消えれば術式ごと消すことができるようだ。術式が消えれば、魔物が生まれるのを完全に防ぐことができるな」
「じゃあ、わたしがやったのって、魔物を殺すというより、術式本体を消しているってこと?」
「そうだ。人が魔物を殺す過程と全く違う。人の目には見えないが、殺された場合、元となるものか知らんが、黒い靄のようなものが出ていくのだが、ユウカが消した場合は何も跡に残らないようだ」
「はあ。でも信じられないよ。魔物を消すことはできるとは思ったけど……」
深いため息。
特に力を使った覚えはない。ただ、自分にも理解できる感情を持っていたから、自分がその時欲しいと思ったことをしただけなのに。
「それは私もだ。けれど、今も北の森の術式を遠見で見たが、先ほどの魔物の分が綺麗に消えている」
「うー……。ほんっとうに、信じられない」
二人の間に流れる微妙に冷たい風を感じながら、優花は微妙な表情をしながら頭に手をやった。ベルディータもなんとなく納得いかない顔をしている。
優花の考えでは、確かに魔物を消すことが出来るとは思っていた。
けれど魔物は消えてもなにかしらの痕跡は残るだろうと思っていたのに、ベルディータが言うにはきれいに術式が消え去っているという。
それに、なんでこんな簡単なことに思いつかなかったんだろう、と不思議に思う。
そうすれば、ベルディータが数百年も術式と格闘しなくても良かったんじゃないかと。
「ええとぉ……他にそういうこと考える人、いなかったの?」
「いないから千年近く続いてきたんだが」
「まあ……魔物を見ると反射的に逃げたくはなるよね。ああいう姿してると。よく見ないと分からないもん」
「……それよりも、もう一度魔物と対面しようと考えるユウカのほうが可笑しい」
「ベルさん酷いっ!!」
可笑しいと断定されて、優花は思い切り叫ぶ。
少し人とズレているベルディータにだけは言われたくない、と思ったのだ。
「まあ落ち着け」
「騒ぎたい元を作ったのはベルさんじゃない」
「それはさておき。人にとって魔物を見るということは、自分の悪い部分を見せられているのと同じような感覚なのだろうな」
「そうなの?」
「ああ」
そういうと、ベルディータはさらに千年前の怨念と、それに憑りつかれた自責の念。
そういうものに取り囲まれながら、この世界の者は生きているのだと説明する。
それを具現化したものが魔物だと、どこかで直感的に思うのだろう、とも。
「なるほど」
それはあるかもしれない、と納得する。
でも、それより魔物が持っている感情のほうが優花には馴染みがあって、微妙な気持ちだった。
自分のことも認めてほしいという気持ちは、何かにつけて活躍する友達を見るたびに感じていた。だから覚えのある感情で、優花も気づくものだった。
それなのに、この世界の人はどうしてそれが分らないのか。
理解するより目を背けるほうが楽なのはわかるが、少し考えれば分かりそうなものなのに。
「でも、少しはちゃんと考えたほうがいいと思うんだけどなぁ」
「何をだ?」
「魔物のこと。悪いものだって決め込んで排除するのは、一方的すぎると思う。少なくとも、わたしは嫌だよ」
確かに怨念のせいもあるが、優花にすると自分の気持ちから逃げている気がして、反発したい気持ちになる。
神様が嫌で逃げ出した優花が言うのもおかしいが、逃げた先に楽園などないのも分かっている。
「嫌なものから逃げて、その先にいったい何があると思うのかな?」
「さあ、な。それは誰にも分からん」
「……」
「ただ、なるべくそうならないように、頼れる存在として神がいるのだ」
「どうして?」
なんでそのために神になるのか。理由が分からず優花はベルディータを見上げた。
「なるべく自分たちのことは自分たちで解決してほしい。けれどそれでもどうしようもない時のために神がいるのだ」
どうしようもない時のための神――本当にそうなのか、優花はここに来てからのことを思い出す。
いいことがあってその報告や、上手くいくようにという願いならいい。
だけど、中にはほんの些細なことで訪ねてくる人たちがいた。
それは本来近くにいる人たちと一緒に解決していくことではないのか、と問い返したい時もあった。
「でも、神様は何でも屋じゃないよ。今のこの世界の人たちは、神様ってのをそんな感じに見ている気がする……」
「それは否定しない。だが、それは怨念がどうのとか以前――私達のせいだろう。ずっと昔から、この世界の人は力あるものに頼るということをしてきた」
「その習性が消えない、ってこと?」
「おそらく」
これは結構根が深い問題なのかもしれない、と優花は心の中で思った。
人の意識を変えるのは大変だ。ましてや千年近い時を経てもそれが一向に解消されていない。
となると、人の意識を変えるのは後にするとして、まずは人を怯えさせるもの――魔物をなんとかするほうが先だろう。
常に恐怖が付きまとっているとなると、どうしても疑心暗鬼にもなる。
「よし! 決めた!」
「どうした?」
「これからやるべきことを考えてたの」
「やるべきこと……もしかして、その気になったのか?」
「は? その、気……?」
意味が分からず首を傾げ、そして、しばらくの間思考停止に陥る。
理解した後、真っ赤になって。
「なっ!? そうじゃなくて! わたしがあそこで神様のフリしてても何の意味もないでしょ?」
「確かにな」
「……う、速攻で肯定する……。じゃなくて、だから魔物を探していこうかと思って。時間はかかるけど、今のなら術式もちゃんと消えるんでしょ?」
我ながら妙案だ、とばかりに自慢げな表情をベルディータに向けた。