吐き出すものを吐き出したら気が楽になった。
しばらくしてから、優花は手で涙をぬぐってベルディータから離れた。
「ありがとう。ベル……ティーダさんって優しい人だね」
「……私の名前はベルディータと言っただろうが」
「あれ、そうだっけ?」
どうやらテとタのどちらに濁音をつけるのか分からなくなっていたようだ。
うーん、と首を傾げていると。
「それよりも、顔に何か跡がついているぞ」
「……は? あと?」
「ここだ」
最初は何を言われたのか分からず、優花はきょとんとする。
が、泣きはらした顔にベルディータの手が触れて、その手がつ、と頬の少し上を横に動くと、メガネの跡がついたんだと初めて理解した。
「ちょ……やだ、メガネの跡!!」
急に恥ずかしくなって下を向いて顔を隠そうとする。
女心で泣き顔にプラスしてメガネの縁の跡までついた顔など、異性に見られたくない。
けれど優花が伏せるより早く、ベルディータが「そういえばこれはなんだ?」と尋ねながら優花のメガネに手をかける。
「メガネだよ。こっちにはないの?」
「メガネ?」
「わたし、目が悪いからメガネかけないとよく見えないんだよね。もう体の一部」
「メガネ、か。こちらにも視力の悪い者はいるが、こういう矯正させるものはないな。調べたら面白そうだ」
ベルディータが面白そうに言いながら、優花のメガネに手をかける。
「大体こんなものがあるから、余計に顔のことを言われるんじゃないのか? これ取れば――」
「顔のことはそういう意味で言ったんじゃないよ。それにメガネは必需品なんだってば。……って、駄目だって!」
抵抗する間もなくベルディータにメガネを外される。
ベルディータは最初メガネに興味を示していたが、しばらくすると優花に視線を移した。
「……メガネとやらを外しても変わらんな。少し目が大きく見えるようになった……か?」
「なんで疑問形なの? ってか、女の子にそんなにはっきり言うなんて失礼でしょ! だから言ったじゃない。顔が、十人並みなの! メガネのせいじゃないってば。それがないと見えないんだから返して!」
きっぱりと、潔いといえば潔いベルディータの評価。
けれど、そう評される身になってほしいものだ。
優花は頭に血が上り、こめかみの血管が浮き出るような感覚がした。
「そうは言うが、こんなもの面倒臭いだけじゃないのか?」
「面倒臭いって外したら、しっかりものが見えなくなるんだってば。それでなくてもよく転ぶのに」
可もなく不可もなく、といった顔だが、別に自分の顔が嫌いなわけではなかった。
それにメガネは優花にとってもはや体の一部といっていい。なければ日常生活に支障が出るのだから。
(だいたい男の癖に余裕で『きれい』と評価されるような人に言われたくないっ!)
微妙に乙女心をちくちくと刺激されて、眉間にしわが寄る。
それでもメガネがないと視界がぼやけて困るので、「返して」とベルディータに向かって手を出す。その手を掴まれて引っ張れらる。
「わっ」
バランスを崩してベルディータのほうに倒れこむ瞬間、額に柔らかいものが触れた。
最初はそれが何か分からなかったが、軽く閉じた目を開けると、ベルディータの顎が見えて、額に触れているのは彼の唇だと認識した。
「ぬわああああぁっ!?」
慌てて離れると、ベルディータは余裕の表情で、「見えるようになっただろう?」と言う。
はっとして、周囲を見回すと、そこにはメガネがなくてもぼやけることなく鮮明に見える景色があった。
けれど、視力が良くなったことよりも、ベルディータの力に驚いた。
もしかしたら、とんでもない人と知り合ったのかもしれない。
「いいいい、いま、なななななにしたのおおおぉぉっ!?」
明瞭になった視界と引き換えに、馴染んだメガネはベルディータに取られてしまった。
しかもベルディータは優花の叫びなど気にもせず、面白そうにメガネを眺めた後、ひょいっと耳にかけて。
「なんだ、これはっ!?」
メガネ越しに見える光景に驚いたのか、体をそらして少し大きな声で言う。
優花ははーっとため息をついた。
視力のいい人が近眼用の視力矯正メガネで見れば、まともに見えるわけがない。
「だから視力矯正のものだよ? 普通の視力の人がメガネ使ったら度が合わなくてクラクラするの、当たり前じゃない」
「そんなこと知るわけないだろう」
「じゃあ、身をもって知って良かったね。うんうん」
「投げやりに言うな」
だったらどうしろというのだ。勝手にメガネを取って勝手に視力矯正して――これはありがたいけど、勝手に人のメガネをかけてみて。
優花には、ベルディータがすごい人なのか変な人なのか、いまいち掴めない。
ただ言えるのは、ここに来てから一番喋った相手であり、会話をした相手、と言えるかもしれない。
悪い人ではないということだけは分かる。だけど、それ以上に変わった人だとも思った。
どちらにしろ、彼は優花を優花として見てくれる――それが、とても嬉しかった。
「もう、仕方ないじゃない。だいたいベル……さん態度でかいよ」
言いづらい名前だったので、間違える前に途中でやめてしまう。
そうしたら、なんか可愛い名前になった、と思いつつ、こっちのほうが言いやすいからいいか、と思う。
ベルディータのほうはその可愛い言い方に眉尻を上げた。
「おい、その、ベルさんとはなんだ? 勝手に略すんじゃない」
「だから言いにくいんだってば。発音がどうたら~って文句つけるなら、いっそ略しちゃったほうが楽だもん。『ベルさん』なら間違いようないし、それに可愛いじゃない」
「だからといって、私をそんな風に気安く呼んだのはお前くらいだぞ。それに、可愛い……私に可愛いという形容詞が似合うと思うのか?」
「思わない」
ベルディータはきれいだけど、体格はしっかりしていて、どう見ても男性としか言いようがない。そんな人に『かわいい』はないだろう。
だからきっぱりと否定する。それと同時に肯定もする。
「でもいいじゃない。たまには違った呼ばれ方するのも新鮮かもよ?」
「……」
ね? と少し引きつった笑みを浮かべながら言うと、返事は返ってこなかった。
「どうしてヴァレンティーネとか、ファーディナンドとか、長いほうはなんとか口にしているのに、なぜ私の名前はしっかり言えないんだ……」
しばらくの沈黙のあと、ベルディータがぼそりとぼやく。
「そうは言われても、ファーディナンドさんは間違ったら怖そうだし、それに長いから気をつけなきゃ、って思うから? でも、ベルさんの場合は中途半端な長さだから油断するというか……それに、濁音をどっちにつけるか迷うかな。だから間違えそうなところは略しちゃおうかと」
「……そういう理由でそうなるのか……」
「うん。」
即答すると、ベルディータはガクリと頭を落とす。
「だめ?」
「……勝手にするがいい」
「ありがと」
面と向かってお願いすると、ベルディータのほうが折れた。頼まれると弱いらしい。
結局、優花はベルディータのことを『ベルさん』と呼ぶことにした。
***
ベルディータとの会話は楽しかった。
ファーディナンドは見下したような話し方しかしないし、テティスは敬語でしか話してくれない。他の神官たちは、新しい神――優花を遠巻きに見ているだけだ。
だから普通に話しをしてくれるベルディータは優花にとって嬉しい存在になった。
多少偉そうでもこの際関係ない。というより、妙に偉そうなのに、どこかズレたところがあって、そこが反対に面白かったりする。
「ベルさんって見た目と違って面白い人だよね」
「……今日はつくづく新鮮な言葉ばかり聞くものだな」
「変わってるって自覚ないの? ベルさんかなり可笑しいけど」
「ユウカ、私に対する言葉がだんだん酷くなっていくのは気のせいか?」
「うーん……気のせいじゃない、かな。でもそれはベルさんが可笑しいからだよ。うん。はっきり認めようよ」
「普通の小娘かと思っていたら……結構言いたいことは言うんだな」
優花はベルディータにまじまじと見つめられ、そんなことを言われて、慌てて「だってこの世界でこんな風に話せる人は初めてなんだよ」と答える。
優花の性格は本来平和主義に近い。
断定しないのは、理不尽なことがあれば、たとえ勝てなくても文句を言うことがあるので完全なる平和主義とはいえないから。
でもここに来てからはファーディナンドを相手に毎日文句を言いまくっている日々だ。
それなのに問題のファーディナンドは決して取り合おうとせず、優花の不満は募るばかりだった。
そんな時に現れた少しズレた、でも話しやすい相手は優花にとって格好の愚痴の吐き出し口になった。
「だいたいファーディナンドさんってばぜんぜん話し聞いてくれないし、テティスはひたすら敬語だし、他の神官たちだって人のこと見てひそひそ話するだけで話しかけてくれないし! もう鬱憤がものすごーくたまるんだよ!!」
「分かった分かった。そうムキになるな」
「なるよー! 少しは聞いてよ! 見習い神官なら神様カッコ代理の話くらい聞いてよ!!」
「分かったから……大体そのカッコ代理とはなんだ」
「だって……他にもっと相応しい人がいたら変わってもらいたいんだもん。あくまで一時しのぎの代理! わたしにそんな力ないの!」
大体神様が出来るような力を持っていたら、前の世界でだって一介の平々凡々な女子高生で終わるわけがない。
あるといえば、慎一が言っていた『心を読む力』という能力だろうが、それも漠然としたものだ。能力といえるほどのものではない。
能力と呼ばれるほどの力があるなら、野望を抱いて世界征服――いやいや、世界征服なんて性に合わないことはしないだろうが、優秀な友達の中にいても埋もれることはないだろう。
「もうっ、黙ってないでなんとかしてよ! あのお役目第一の朴念仁を!!」
優花はダンッと地面を力強く叩いて力説した。