優花は体をゆさゆさと揺さぶられて、少しずつ意識が覚醒する。
「んん、なに……?」
「起きてください、ユウカ様」
「もー少し……」
「早くしないと神官長様がお見えになります」
パチ。
「それ早く言ってええええ!!」
ガバッという効果音が似合うかのように、勢いよく飛び起きた。
優花がキトに来てすでに一週間が経っていた。その間のファーディナンドのしごき――もとい、神様教育は想像を絶するほどハードだ。
教育の一環として、朝早く叩き起こされる。朝の祈りというのがあるらしい。
それに間に合うように起こされるのだが、なかなか起きないとファーディナンドが直々に起こしに来る。ひんやりと冷たい空気をまとって、幸せな眠りから無理やり引きずり出すのだ。
「やはり神官長様を出すと早いのですね」
「それだけはやめてー。幸せな夢も吹き飛んじゃうよー!」
「……それはすみませんでした」
部屋の片隅には仕切りがあって、その奥はバスルームのようになっている。
ここには水道のようなシステムがないので、井戸から汲んできた水を温めてから持ってきている。
何度も足を運ぶのだろうが、疲れて熟睡している優花は、テティスがお湯を運んでいるのを見たことがなかった。それだけ静かに支度をしてくれているのだろう。それを思うと申し訳ない気持ちになる。
「それよりもいつもありがとうね」
「はい?」
「わたしが寝ている間にいつもお風呂用意してくれるでしょ? しかもいくら寝ているからって静かにやってくれてるんだろうし」
「それは当然のことですわ」
神という立場から身を綺麗にしておくのは当然らしい。
朝一番で身を清めて、新たな服を纏う。服はまるでギリシャ神話に出てくるような格好といえば分かるだろうか。
薄い布を体に巻きつけ、細い紐で胸のすぐ下から腰のあたりまで広い範囲に幾重にも巻きつける。その後さらに薄い布を肩にかけて、紐にからませ固定する。
腰ひもは広範囲にきつめに巻くのでかなり苦しい。それに、この服装は否が応でも体形が分かってしまう。
その支度が終わると、先ほど言った朝の祈りのために、広間に行かなければならない。
人前に出る緊張から胃がキリキリ痛む。でもこれを終わらせないと朝食にならないのだ。優花は気を引き締めて、大きく息を吸ってから、覚えた祈りの言葉を紡いだ。
***
「かなり慣れてきたようですね、いいことです」
祈りが終わるとファーディナンドは優花の前に現れる。
相変わらず何を考えているのか分らない表情をしているな、と心の中で思う。
それを表情には出さずに、優花は少し笑みを浮かべた。
「ファーディナンドさん、おはようございます」
「おはようございます。それでは朝食の後はいつもの部屋で」
「は、はい……」
いつもの部屋とは、ファーディナンドに与えられた執務室のような所だ。
分厚い本がたくさん並んだ本棚に挟まれている。この世界の歴史をつづった部屋だと言っていたが、文字通りそこに並んだ本はこの世界のことを詳細に描写されていた。
ちなみに言葉と同じく、文字もあの光から知識を得たようで、問題なく読むことができた。その辺はありがたかったが、文字が読めると聞いた途端、勉強のレベルが跳ね上がった。
(言わなきゃよかったんだよね。そうすれば口頭で話を聞くか文字を覚えるかどっちかだったのに)
現在ファーディナンドの監視下、優花はあくびを堪えつつ分厚い本と睨めっこの状態だ。大抵のことは本を読めば分かると一刀両断されるので、ひたすら本を読むしかない。
未だこの世界の概要を書いた本しか読んでいない状態だ。一体いつまでこの状態が続くのかと思うと、気持ちがどんどん沈んでいく。
はあ、とため息を一つついた。
(でもいまいち分からないなぁ。世界の始まりがすっごいあやふや。神様はどうして不思議な力があったのかな?)
開いたページを指先でトントンと叩きながら、文字を睨むように見る。今見ているのは二百年くらい前のもの。今まで記録のあるところからずっと見てきたが、“神”に関する記述がほぼ同じ。
(――ということは、ヴァレンティーネさんはずっと“神様”としていたのかな。となると人とは違う? でも、なんで一人だけ人と違うんだろう?)
神は神、と言ってしまえばその通りなんだろうが、神話と呼ばれるところの記述がないせいか、なぜ神が存在するのかが分からない。
(普通は神様が世界を作った、とかあるんだけどな。うーん……)
神とはいつから存在するものか分からないものというのは、地球でも同じこと。
でもここでは神は身近に存在している。だからこそ、人とは異なる神という存在に対して疑問を感じた。
「ファーディナンドさん、ちょっといいですか?」
気になると聞いてみたくなるのは仕方ないだろう。
聞いても最後には「そんな馬鹿なことを聞いてないでさっさと本を読みなさい」となるのがいつものことだが。
「なんですか?」
「あの……今読んでる本なんだけど、世界の成り立ちというか、そういったところが不明確なんですけど……」
「そうですね」
「で、神様っていつからいたんですか?」
本当はなんで亡くなったのかも問いたかったが、さすがにそこまでは聞けなかった。
しばらくの沈黙の後、ファーディナンドは持っていたペンを置いた。
「それは、まだ後でのことです」
「でも、神様ってどこから……魔物だってそうだし……」
忽然と始まるこの世界の歴史。
そこには“神”と、それに反するかのように存在する“魔物”たち。でも魔物は統率されておらず、ただ人の心を脅かす。神はそれらから人を救う存在。
それらを知れば、少しは神というものが分かるかもしれない――と思うからかもしれない。
だから知りたいと思ったのだが、ファーディナンドはいつものように取り合ってくれなかった。
「無駄口を叩くくらい余裕があるなら、今日中にその最終巻まで見てください」
「え? それとはこれとは……」
「今現在あなたがすべきことは、一刻も早くこの世界のことを覚えること。細かいことはそれから先のことです。もし聞きたいことがあるのなら、何かに書き留めてまとめてからしなさい」
返事をしないうちに、厚みのある紙が数枚とペンとインクを机の上に置かれた。
こうなると取り付く島もない。優花は膝の上に乗せていた本を机に置いて、それらを近くに置いた。
受け取った紙は羊皮紙のようなものかと思ったが、渡されたそれはきちんとした紙だった。ただ細かい工程を経て作られるものではないらしく、厚みがありかなりぼこぼこしている。それでも、紙をメモとして使えるくらいには、生産されているのだろうというのが窺える。
それを手に取って、いくつか疑問に思ったことを書き留めた。
(……って、分からないことだらけなんだけど……。一つ一つ書いていかなきゃならないのかな?)
書き出すとなるとまた一つ作業が増える。
でも、ファーディナンドは、同じ問いに二回も答えてくれるような人ではない。同じことでなくても何度も質問していれば、鬱陶しく思うに違いない。
仕方ない、必要なことは書きためておこう、と新たにやることが増えたことにため息をついた。
***
しばらくすると、周りのことも多少は見えてくるものだ。
ここでの神は力を持ち人の支えという存在。そのため人とあまり接点がない存在かと思っていたが、想像とは違っていた。会おうと思えばいくらでも会えるという気軽さがある。
宮に納める寄付金によって、まるで神主がやるような祈願成就の祈りから、周囲に関わる深刻な内容のことまでと幅広い。
現在は祈願成就の祈りのために訪れる人の相手は優花で、魔物や領主がかかわるような深刻な問題はファーディナンドが対応する、という形になっていた。
表面上は仕事が分担されていていいように見えるが、優花には祈りに来た人の願いを叶えることが出来ない。
そのせいか期待に満ちた人の視線が痛かった。
前に、耐え切れずにファーディナンドに抗議したことがある。
だんだんヒートアップしてく怒りに、ついに殴ってやろうかと思ったほどだ。
とはいえ、それを実行させてくれるほどファーディナンドはお人よしではなく、そして優花の動きのほうが鈍かった。
優花の考えなどお見通しのようで、反対に『力がないのにここにいるなら、それらしい振る舞いくらいしなさい』と冷たい目であしらわれる。
(力があったら速攻帰ってるからー!!)
心の中で舌を出し、行き場をなくした怒りをなんとか抑えた。
***
「今日もお疲れ様でした」
「ありがとう、テティス」
差し出されたお茶を受け取る。珍しく人が少なく、久しぶりにもらえた休日のような気分だ。のんびりとお茶を飲んで一息つく。
それにしても神官・巫女がいるのだから、ある程度の人たちを相手にしなければならないが。
それだけこの世界の『神』は『人』にとって身近な存在であり、相談役でもあった。
今日も遠くの地からわざわざ清水鏡宮にお参りに来た人たちに挨拶に来たりする。
(でもなんで神様がそんな細かいことに口を出さなければならないんだろ?)
そう思うのも仕方ないだろう。
しかし、宮はそうした寄付によって成り立っているところもあるらしく、参拝する人を無碍にすることは出来ないらしい。
(はっ、もしかして、前の神様は過労死!?)
こんな細かいことまで神様の仕事。
今は慣れない優花のためにそれ以外の大きな問題は神官長であるファーディナンドが処理しているらしいが、それも以前は神と神官長の話し合いで進んでいたという。
いつそういった仕事まで回されるのかと思うと、内心冷や冷やものだ。
「失礼します」
テティスとは違う声だ。「はい」と答えれば、控えめに扉が開かれる。
そこには何回か見たことのある若い神官が立っていた。
「なんですか?」
「あの、お休みのところを失礼します。新たに宮を訪れた方たちがいるのですが、神様にお会いしたいと」
「はあ……どういった要件なんですか?」
「結婚のお祝いに神様の言葉を頂きたい、とのことですが」
わたしに会ってもなんの御利益もないのに――と思うのだが、優花は仕方なく立ち上がった。
嫌だとごねても結局やらなければならないのなら、早く終わらせた方がいい。なんだかんだ言って自分の仕事はこなしている優花だった。
個人的に人と会う場合は、神殿の大広間でなく別の部屋であることが多い。呼びにきた神官に案内されながら、中庭に続いている部屋に通された。
今回の内容はとある商家の息子が結婚するということで、そのために祝福をもらいたいということらしい。
こんな所にわざわざ来るより、二人で幸せな家庭を築く努力をしたほうがよっぽどいいだろうに、とこれまた思ったが、思うだけで口には出さなかった。
優花の姿を見ると一瞬驚くものの、すぐに笑みを浮かべる。けれどその笑みは少々引きつっているのが丸分かりだった。
隣に立つ神官よりも頭一つ以上小さいし、顔立ちも幼い。これが『神?』と思うのは仕方ないし、その『子供』を頼りにするのは気が引けるようだ。
出来たらそのまま帰りませんか――と言いたいところをあえて我慢する。
「このたびは息子の結婚にお祝いの言葉の一つでも欲しく――」
「はあ」
思わず気のない返事をしてしまう。
それに喜んでいるのは少々小太りの中年の男性と女性で、その一歩後ろにいる青年と女性は浮かない顔をしていた。
若い方が結婚する本人たちだろうが、どう見てもこの結婚を喜んでいるように見えなかった。
「一人息子の結婚なので、是非、神様の祝福をと思いまして――」
「あの……少し席を外していただけませんか? お二人にお話をしたいので」
「え?」
「だから少し本人たちとお話したいんです」
本来なら事務的にこなす内容なのに、いつもと違う反応に神官たちも戸惑う。
「か、神様?」
「え? なにか問題あるの?」
「いえ……問題とかはないと思いますが……」
「もう今日は予定もないでしょ? なら、少し時間がかかっても大丈夫だよね」
「は、はい……」
いまいち納得できない表情で、でも止めることはできない神官たち。彼らを横目に優花は二人を中庭に連れ出した。
「お名前を聞いてもいいですか?」
中庭に出て部屋からある程度離れると、優花はくるりと振り向いて尋ねた。
なぜ自分がこんなことをしているのか疑問に感じるところもあったが、気になってしまったものは仕方ない。
「エラト、といいます。こちらはエリフィラです」
「エラトさんとエリフィラさん――ですね」
「はい」
二人が頷くのを見てから、優花は率直に話しだす。
「あの、二人ともこの結婚を望んでるんですか?」
「え?」
「……」
エラトのほうは驚いて、エリフィラは答えられずに俯いた。やはり何かある、と思えるような反応。
ふう、とため息をついてから二人をもう一度見て。
「あのですね、結婚のお祝いを――って言っても、当の本人にその気がなければ意味ないと思うんです」
「その気……ですか?」
「はい。二人とも、とても結婚するのが嬉しいって感じに見えないから」
二人の様子は、昔見せてもらった父と母二人が映る写真の表情と全く違う。
優花の両親は二人ともとても嬉しそうな顔をしていたのに、目の前にいる二人は浮かない表情をしていいて、とてもこの結婚を望んでいるように見えなかった。
「聞いていると思うけど、わたし、新米の神というか……神なんてやりたくはないんだけど……」
「はあ……」
「……ってのは置いといてですね。わたしがおめでとうって言うよりも、二人が幸せになれるように努力しなければ、幸せになんてなれないと思うんですよね。だけど二人にはその気持ちがないように見えるんです」
いったん言葉を切って、少ししてから「違いますか?」と尋ねる。
すると二人は静かに頷いた。
「実は僕たちは幼馴染なんです。小さい時から一緒にいて、互いのことはよく知っていると思います。仲もいいです。でも恋とは違う……そう思います。それに……」
「私には想う方が……今は離れていますが、その方を忘れられないんです。もう会えるかどうかさえ分からないんですが……」
「エリフィラのほうはそんな感じですが、傍から見たら僕たちはそれなりに仲がいいように見えます。しかも、エリフィラの両親が二年前に亡くなって、僕の家に一緒に住んでいるという状態なんです。そんな感じなので、いつの間にかに親が決めてしまった――というわけなんです」
エリフィラも面倒を見てもらっているため断るに断れず了承した、と付け足す。
「そうなんですか」
幼馴染で互いを知っている。しかも仲が悪いわけではない。でも結婚したいと思わない。
さらに女性には思う人がいる――となれば、やはり『おめでとう』などと言えない。
しかも本人たちがこの結婚を望んでいないのなら尚更。
「なら、わたしから祝福の言葉は贈りません。皆でよく話し合ってください」
「え……」
「理由は今言った通りです。本当にそれで幸せになれますか? わたしの言葉なんて気休め程度にさえならないですよ? 自分たちの未来です。だから自分たちできちんと話し合って決めてください」
少し突き放すように言う。
けれど、一生を左右するようなことを、赤の他人が勝手に決めていいものではない。互いに話し合って、そして結果を出すほうが望ましいと思った。
優花の言葉に二人は迷い、そして考え出す。それを見て優花は「頑張って説得してくださいね」と笑み浮かべた。