赤くなった慎一を涼子とまどかの二人でからかっている。
涼子とまどか二人を相手に何か返すから、次から次へとやりとりを続けることになるのだ。だからある程度のところで切り上げたほうが延々続かなくて済む。
優花にとっていつものことといえばいつものこと。もう慣れっこといっていい。落ち着いた口調で「ムキにならなきゃいいのに」と呟く。
「慎一もまだ若いからねぇ」
「右京先輩、その言い方、年寄りくさいですよ」
「でも、それを見ても口を出さずに楽しんでいる優花ちゃんも似たものがあるよ」
「わたしは無駄な言い争いはしたくないんです。口でも手でも二人には勝てないの、分かってますもん」
勝気な涼子に、頭のいいまどか相手に丁々発止とやりあえる気はしない。
それよりこの光景を傍観者として見ている方が楽しめるのは事実。
ついでにいうと三人のやりとりはコミュニケーションの一種で、ケンカではないから安心できる。心配するようなことはないのだから。
「これが他の人相手のケンカならすっごく心配だけど、二人だからいいんです」
「慎一は強いから、それを過信して向かっていっちゃうからねぇ」
「そーなんですよ。この間だってうちの生徒が他校生苛められているのを目撃して、相手が四人もいるのに向かっていっちゃうし」
「それは、また……で、勝ったの?」
「一応。少し殴られてましたけど。そんなの知られたら部活にだって響くのに。苛めを見逃すのが嫌だってのは分かるけど……」
優花に出来るのはせいぜい誰かを呼んでくるくらい。
だから怯まず向かっていける慎一が羨ましい。
「シンちゃんは強いけど、もっと強い人は沢山いると思う。そんな人が相手だったらって思うと心配だし。わたしには手助けできる強さなんかないから……」
優花は自分の手を見つめながら呟いた。
並みとはいえない運動神経。頑張っても少しも良くならない。あるのは、強くなっていく慎一に置いていかれる焦りだけ。
そんな悔しい思いに、手をぎゅっと握ると、頭に優しく何かが置かれる。それは右京の手だった。
「右京先輩?」
「優花ちゃんは自分のことをよく分かっているね」
「でも、分かっているだけじゃ変わらないです」
「何もしないなら問題だけど、できる範囲で頑張っているなら別だよ」
ね? とばかりに微笑まれると、優花の心は少しだけ軽くなった。
いつもそうだ。右京は慎一や涼子たちを見て焦る優花に、いつも今のままでも大丈夫だよ、と言ってくれる。兄がいたらこんな感じだろうか、といつも思う。
同時にこんな優しい従兄妹がいる涼子を羨ましくも思う時でもある。
「ありがとございます。右京先輩」
「あーっ! 先輩ってばまたしてる!!」
「は?」
頭をなでてもらって和んでいると、いきなり慎一の声で台無しになる。
それでも右京の手はまだ優花の頭の上にあり、右京はからかうような笑みを浮かべて「羨ましい?」と慎一に言う。
「……っ、そうじゃなくて!! 優花もなんで子供扱いされて怒らないんだよ!?」
涼子とまどかにからかわれ、更に右京にまでからかわれるのは堪らないらしい。
右京には返事をせずに矛先を優花に向けた。でも慎一の叫びなど怖くないので、優花はそのままの姿勢のまま変わらない。
「えー? だって気持ちいいよ?」
「猫じゃないんだから!」
「別に猫でいいよー」
慎一は優花が右京に甘えるのがあまり好きではないらしい。こうして甘やかしてくれる右京に対して、またそれを甘受する優花に対して怒ることがある。
優花にとって特別な男性は慎一と右京だけだ。
慎一は幼馴染、右京は兄として見ている。だから甘えることのできる二人なのだが、慎一はそれが気に入らないらしい。
慎一の気持ちを考えると何となくは分かる。が、それでも右京の“お兄さん”の地位は動かない。
涼子とまどかからするともどかしいのと、からかって楽しいのとで、結局面白がって見ている状態だ。今も二人は黙ったまま、けれど、顔はニヤついている。
しかし、余りに慎一がうるさいため、右京のほうが途中で切り上げた。
「そろそろ時間よ」
「本当だ」
「もうそんな時間?」
「ほら優花、早くしないと授業始まっちゃうわ」
「う、うん」
まどかが腕時計を見ながら言うと、皆急いで広げたお弁当を片付ける。
優花たちは次の時間は美術のため、一旦教室に戻ってから美術室に行かなくてはならない。予定ではいつもより早めにお昼休みを切り上げるはずだったが、いつもの時間になってしまったようだ。
食べて空になったお弁当箱をランチバッグに入れて立ち上がった。
その瞬間、ものすごく大きな声が優花の頭に直接響いた。
――助けて――!
「やっ……!」
あまりの大きさに、ランチバッグを持ったまま耳を塞ぐ。
(なにこれ!? 夢よりもずっと声が大きくて、すごく切羽詰った感じ……)
胸を突き刺すような悲痛な声に、心臓は高鳴り、怖くなった。
「優花?」
「どうした?」
「また……声、が……する……」
「声?」
心配して近寄る皆の声がかき消されてしまう程、誰か分からない助けを求める声は大きい。
頭が割れそうなほど響いて混乱する。
「やだやだやだあっ!!」
耳を塞いで自分の声で書き消そうとするのに、声は一向にやまないどころか更に大きくなっていく。
皆が訝しげに優花を見るが、そんなのを気にしていられるような状態ではなかった。
――タスケテ タスケテ ハヤク ハヤク 時間ガ、ナイ ――!!
「優花!」
「優花! 足元!!」
「え? あ、あしもと……?」
耳を押えるようにして目を瞑って下を向いていたが、声に促されて恐る恐る目をあけた。
すると足は白い霧のようなものに包まれて自分の足元が見えなかった。
「やだっ、なにこれえっ!?」
パニックになっている間も、頭に響く声はやまない。
それよりも、もっと切羽詰った感じになって、切なくて悲しくて、頭が割れそうなほど響くのに、なぜか胸が痛くなる。胸の上の制服をぎゅっと掴んだ。
「優花!!」
――タスケテ、タスケテ、タスケテ……!
耳を押えてもやまない声に、慎一の声が重なる。
慌てて助けて、と叫ぼうとするが、足元の床がなくなり体が傾く。
「いゃあああっ!!」
「優花!!」
落ちていく感覚に気が遠くなりかけた時、腕を掴まれる。それと同時に声は一段と大きくなって、不安からその手を掴み返した。
見なくても足もとに触れるものがないのが分かって、落ちたらどうなるのかと考えると怖い。
「大丈夫か!?」
「シンちゃん、こ、怖いよぉ……」
「今助ける!」
「優花、頑張って」
力強い慎一の声、心配する涼子の声も聞こえる。
同時に引っ張られる感覚に、少しだけ安心した。
でも。
――タスケテ――!!
先程より更に大きな叫び。それが耳ではなく、脳に直接響く。それに驚いて慎一を掴んでいた優花の手が緩んでしまった。
同時に強い力で引かれ、慎一から手が離れてしまう。
「優花!?」
「シンちゃん!」
慎一たちも優花を引っぱるために、半ば白い世界に入り込んでいる。
(どうしよう、このままじゃシンちゃんたちまで……)
それなのに手が離れ、優花は慎一たちから遠ざかっていく。落ちるだけでなく、何かしらの力が作用しているようで、ぐいぐいと引っ張られた。
「シンちゃあああんっ!!」
叫びもむなしく、あっという間に白い世界に一人になってしまった。
どこなのだろうか、と不安いっぱいに周囲を見回す。
どちらが上なのか下なのか分からない空間。ところどころオーロラのような色のゆらめきが見える不思議な光景。
「どどどど、どうしよう……」
もしかしてもしかしなくても、夢で見た声の主のせいなんだろうか、もしそうだとしたら、かなり強力な幽霊なのか。
それとも慎一の言ったように異世界なのか――優花はどうしたら元に戻れるのか考えるが、これといって思い浮かぶものはない。
ただ何らかの力に導かれて、元の場所から遠ざかっているのだけは分かった。手をきつく握り締めていると、引かれる方向から光が向かってくる。
(今度はなにーっ!?)
一つだけではない、いくつかの小さな光の玉。
避けるのは無理だった。当たると思って身構えると、その光は痛みも何もなく優花の中に入っていってしまった。同時に見たことのない光景が目に浮かぶ。
石造りの壁に木の屋根、舗装されていない道。
足首までの長い服にエプロンを身につけた女の人が数人、井戸端会議をする傍らで、子供たちが何かをして遊んでいる。
日本とは全く違う生活風景。
(なんなの?)
なんでこんな光景を見るのか不思議に思っていると、次の光が体の中に入る。
今度は誰かの中に入っているようで、その人の視点から白い装束を身にまとった人たちに傅かれている様子が目に入る。その人の視線で見ているため、どんな人か分からない。でも偉い人のような気がする。
そんな風に考えていると、青みがかった銀髪の青年が近付いてくる。
『ヴァレンティーネ様』
『ファーディナンド、どうした?』
『お疲れではありませんか?』
『まだ大丈夫だ』
『あまり、ご無理をなさらないでください』
男の人の声が聞こえる。二人とも落ち着いた声。
こんな状況でなければずっと聞いていたくなるような声だった。
次に見えたのは、場所が変わってきれいな庭園を歩いている様子。
様子といっても、やはり誰かの視線で見ているので、色とりどりに咲く花がゆっくりとした移動していくのを見るだけだ。
その後も光が体に入り込むたびに違う光景を見た。
それを見て自然に涙がこぼれた。
理由はすぐに分かった。光が入り込むたびに、助けてという気持ちも一緒に入ってくるからだ。
「でも、わたし、何も出来ないよ……」
視線の元になっていた人は、どう考えても“偉い人”だ。
その人に助けてなどと言われても、凡人に何ができるだろうか。
優花は悲しい想いを抱え混むようにしてそっと目を閉じた。