朝食を食べ終わるといつの間にかに不安は消え、機嫌よく家を出た。行ってきます、という声と同時に玄関のドアを開ける。
「あ、おはよう、シンちゃん」
「よっ、優花」
家の入口の前には制服と思われる格好の男の子が立っている。
彼は優花にとっては隣に住む幼馴染だ。名前は渡辺慎一という。
優花より一学年下の慎一は、今年優花のいる高校に入ったばかりだった。
「あー! もうちゃんと着なきゃ駄目じゃない!」
まだ熱いためシャツとズボンだけでいい。が、校則ではネクタイを締めないといけない。けれど慎一はネクタイを首にかけているだけで、シャツのボタンもいくつか開けて着崩していた。
「暑いんだよ。それにしても、いつもより遅かったじゃねーか」
「そう? そんなに遅くはないと思うけど……まあ、夢見が悪かったんで、ちょっと支度にもたついたかな」
「夢?」
「うん、夢」
「どんな?」
「それは……」
ここで話すべきだろうか――優花は少し迷う。
慎一の性格から、優花の話を誇張して面白がるに違いないということは簡単に推察できてしまう。
それに夢の内容はいたってシンプル。ただ『助けて』を繰り返すだけ。それ以上の説明のしようもないが、相手はそれだけでも妄想を膨らませることのできる人物だった。
優花が話すのを躊躇ったとしても仕方ないだろう。
が、そんな優花の表情が、余計に慎一の興味を引くものになっているとことに気づかない。
「優花、なに考えてんだ?」
「うん? えっと……。――あっ!」
「優花!」
考える方に没頭していると、側溝の小さな段差に躓く。
慎一の手助けもむなしく、転んで膝をついた。
「……いたた」
「そりゃ転んだんだから。まったくよく転ぶよな」
呆れた声音。だけど転んだ優花にすぐに手を差し出す。
その手を取りながら「ありがとう」と返した。
「どっか怪我してないか? それに制服に汚れがついてるぞ」
「え、やだ!」
「制服はいいから怪我は?」
晴れていたのでついたのは砂くらいだった。その汚れを慎一が軽く叩いて落としてくれる。
優花は体の痛む場所はどこか探してみた。
「怪我は?」
「ちょっと膝を擦りむいたみたい。ちくちく痛い」
「じゃあ学校行ったら最初に保健室な」
「うん。それまで我慢するよ」
ここから学校まで水道のある場所はない。
それよりまっすぐ学校に進んだほうが早い。学校には保健室があり、ちゃんと消毒なども出来る。
「いこ、シンちゃん」
「ああ、で、夢って何?」
「忘れてよ……」
「だって面白そうな話じゃん。忘れるわけないっての」
アクシデントのために忘れてくれたかなと期待していたが、どうやら無理だったようだ。仕方なく優花は話しだした。
「えーと、なんていうか……助けてって声がしたの」
「声?」
「うん。そういえば周りは何もなかったかな。でもって『お願い、助けて』って言われたの」
「へえ」
「でも、わたしじゃ、どんなことにしろ力になれるとは思わないから、出来ないってお断りしてたんだけど、なんかずーっと繰り返されて。精神的に疲れたって感じかなぁ?」
何をして欲しいのか全く言わないし、無理だと言ってもまだ繰り返す。うんざりするほど何回も。
感想は疲れた、というのが一番だった。
「それだけ?」
「それだけ」
「ふーん」
あっさり返事を返すと、慎一は顎に手を当てて空を見上げる。何かを考えているようで、優花は下から見上げるようにして尋ねた。
「なに?」
「それだけだったら、無視してれば良かったんじゃないのか?」
「…………おお、なるほど。」
なんか目から鱗が落ちたとはこういうことか、と妙に納得する優花。
確かに助けてという一言だけでは何をどうすればいいのか全くわからない。知らないふりして別のことを考えていれば、いずれ夢の内容は変わっただろう。
「そっかあ、でも何回も言ってくるからその都度無理とか、他の人にしてって言ってたんだけど、夢だもんね、無視してれば良かったんだー」
「……優花って変にマジメだよな」
「そ、そんなことは……」
ないとは言えなかった。適当なところもあるが、変に真面目なところも多い。
それに声はどこか悲しそうで、夢とは思えないほどリアルだった。だからつい答えてしまった。
「でもそれってユーレイだったら懐かれたしてな」
「や、やめてよ。お母さんみたいなこと言わないでよー」
なんで同じようなことを言われなきゃならないんだ。朝からその手の話はやめて欲しい。
それでなくても寝不足気味なのに頭が痛くなりそうだ。
「だって優花って心が読めるんだっけ? だから犬や猫にも話しかけたり優しく接したりしてるし。今度はユーレイか? 幅広くなっているなー」
「読・め・な・い。何となく相手がいま嬉しいとか、怒ってるとか何となく感じるだけ。人の心が読めたら怖いよ。それに幽霊から離れて! 勝手に話広げないで!」
どうして、そんな大事のように考えるのか、当の本人にとっては不思議だ。
相手の表情や態度で、怒っているとか今嬉しいんだとか、ある程度は分かるものだ。それを少し良くしただけだと思っている。だから大げさにしないでほしい。
「じゃあ、ユーレイじゃないとしたら……もしかしたら異世界へようこそ♪ だったりして」
「異世界?」
楽しそうな慎一に対して、眉をひそめる優花。
それに気づいているだろうに、まるきり無視して調子よく言う。
「そ、よくあるじゃないか。漫画とかゲームで。優花だって読むだろ? 異世界トリップとか異世界転生の話。よくあるじゃん」
「シンちゃん……お話と現実を混同しないでよ。それに、ああいう話って、力があるから勇者とか……とにかく普通じゃない人が選ばれるでしょ。わたしには何もないじゃない。無理無理」
「うーん、確かに」
優花の返事に、慎一はわりと素直に頷いた。
素直すぎて多少引っかかるものを感じる優花だが、事実なので追及はしない。
「それに、『声』は『助けて』と『お願い』ばかり。どちらも少しずつ違う感じだったし」
「まあ、優花にそういうことを、頼む時点で間違ってるよな」
「でしょー?」
成績は中の中。運動神経は皆無に近いほどとろくさい。そんなのが物語に出てくるような勇者に選ばれるとは思えない。
隣を歩く慎一のほうがよっぽど似合ってるだろう、と心の中で思う。
「わたしじゃ願い事を叶えるどころか、足手まといになるのが目に見えてるよ」
「でも優花は心が読めるじゃん」
「だから読めないってば。力って言えるほどじゃないし、そんなに言うならシンちゃんにあげちゃいたいよ」
「あ、欲しい」
「ホント? どうやったらあげられるのかな? 貰ってくれるならいくらでもあげるから」
「本気で考えるなよ」
呆れた口調で返されて、駄目か、と軽く舌打ちしたい気になった。
下手に相手がどんな気持ちでいるか分かるので、不機嫌な時とか変に気を遣ってしまう。
悪いことばかりではないのだろうが、特に慎一といると心配するほうが多くて困る。ケンカ早い彼の側にいると、この力とも言えないものを疎ましく思うのはそんな時だ。
「だっていらないもん。欲しいならほんっとうにあげる。もうきれいにラッピングもしてリボン付けて、お花も付けてあげる」
「おい……」
「だってシンちゃんの場合、少しそういうのが分かったほうがいいような気がするし」
分かったところでその性格が変わるわけでもなさそうだが、それでも少しは影響があるのでは、と思う。
「あげたいからあげる、ってもんじゃないしなぁ。でも異世界に行くなら連れって欲しいよなぁ」
「シンちゃん……空想と現実を一緒にしないでよ。わたしはユーレイも異世界へ行くのも、どっちも嫌だよ」
それにしても母が言った幽霊に、今度は異世界。何故か可能性が増えた気がする。しかも規模も大きくなっている――思わず表情がものすごく嫌そうになった。
しかも彼らは優花の反応を面白がっているのがよく分かるので、なおさら嫌さが倍増する。
ただ、優花だけは冷静に、自分では何もできないと思った。
(でもどっちにしろわたしには本当に無理なのに。大体わたしのような人並みの能力しか持たないのが、そんな風に助けを求められるわけないじゃない。とりあえず幽霊なら御払いに行かなきゃならないかな。異世界だったら――は、ないか。うん、絶対あり得ないよね)
「優花?」
「え? ――あっ!」
「っあっぶねー……。朝から二回も転ぶ気かよ?」
「別に転びたくはないんだよ、シンちゃん」
考えるほうに気を取られて、またもや転びそうになってしまった。
慎一の腕のおかげで二度目は回避されたのは幸いだろうか。
ドキドキする心臓をなだめながら、腕にしがみ付いたまま、ゆっくりと体を元の状態に戻した。
「あ、ありがと。助かったー」
「まったく、優花って目を離せねーよな」
「うう……わたしのほうが年上なのに……」
「それ、説得力ないし。でも成長はしてるのかな?」
「は?」
きちんと立ってから、慎一を見ると、少しだけ頬が赤い。
なんだろう、と首を軽く傾げると、慎一は少し視線をずらして。
「成長したじゃん、胸」
「……っ!?」
「一緒に風呂入ってた頃は真っ平らだったのに」
「いいい、いつの話してんのよ!? シンちゃんの馬鹿っ!!」
頬を赤く染めながら、優花は自分の胸を隠すようにして慎一を睨んだ。先ほど慎一に支えられた時、ちょうど腕に当たったようだ。
優花は身長は低めだったが、結構肉付きがいい。睨んでいる優花に、慎一はぼそっと呟いた。
「結構やーらかいよな。Dカップ以上はあるかな」
「馬鹿っ!!」
(人が気にしていることを言うなあっ! それでなくてもちょっと太ってるかなあって思ってるのに!!)
優花は背が低い分、食べたものは脂肪になったのかよく分からないが、小柄ながら肉付きはいい。体重は美容体重というより、標準体重というのが少しだけコンプレックスになっているのに。
八つ当たりで持っているカバンを振り回してみるものの、運動神経のいい慎一相手ではぶつからない。反対にカバンの重みに振り回されて優花の方がふらついてきた。
「一回くらいど突いてやりたいのに~っ!」
はあはあと息をしながら行き場のない怒りを叫ぶ。
けれど慎一のほうは余裕だ。
「ムリムリ。優花の運動神経じゃあ、俺に当てるのは百年頑張らねーと」
「むむ。」
「それより早く行こうぜ。保健室よらなきゃならないんだからよ」
「……納得いかないけど、遅刻はいやだから行く」
ブツブツ言いながら、それでも学校に向けて歩き出す。
歩きながら、助けてと言っていた人は身近に手を差し伸べてくれる人はいないんだろうか、と考えた。
(あ、だからね、誰か知らないけど声の主さん。どこの誰だかわからない人に頼むより、近くですぐに手を貸してくれる――そういった人に頼んだほうが絶対いいよ)
優花は誰に言うでもなく、空を見上げながら心中で呟いた。