その日の昼過ぎ、シュクルは仕事を終え、新しい家に戻ることになった。
仕事の疲れが残っているため、少しでも休みたかったが、あの家でゆっくり休めたことがなかった。
別にミアディと仲が悪いわけではない。
ただし、仲がいいわけでもない。
最初よりよくなったものの、シュクルを見るミアディの表情が硬い。そのため、シュクルはミアディに話しかけることを躊躇ってしまうし、また、顔を合わせるのもどうしたものかと考えてしまう。
怯えさせたいわけではない。
なのに、ほぼ強制的に自分と結婚させられたことを考えると、自分に心を開けというのは無理なのかもしれない。
しかも、まだ十五歳なのに、天つ人の婚儀に則ったものを強制的に……
(大事にしたかったのに、あの時は余裕がなくて……言い訳だな。どう言い繕ったって、ミアにとって、俺との結婚はこの村にいるための条件のようなものだから……)
シュクルの心に引っかかっているものは、ミアディに結婚を強要することになったこと。
結婚を拒否する方法もあった。けれど、いくら怯えられても、シュクルにはミアディを自由にしてあげることは出来なかった。
ミアディが生まれてからずっと、ずっと、彼女のことを思っていたのだから。
刷り込みもあっただろう。天つ人だから結婚するならミアディと――という、村人の意見と、二人の両親の思いとで。
『ミアのことを……お願いね』
今際の際に言ったミアディの母――マリザの言葉。
『ミアちゃん、可愛いから、向こうで言い寄られてないかしら?』
『おいおい、ミアちゃんはまだ十歳だろ? いくら可愛くったって……』
『だって! 本当に気になるんですもの』
村から出ていって数年した頃の両親の会話。これを聞いて、かなり動揺した。
ミアディが移った所は、村ではなく町だ。人もこの村より沢山いるだろう。その中に、ミアディを見初めるものがいないとはいえない。
……たとえ、ミアディが十歳だとしても。
そんな風に心配するほど、シュクルはミアディのことをずっと想っていた。
可愛い妹などでなく、一人の少女として。
ミアディが村に戻るという報せがあった時、シュクルは躊躇した覚えがある。
先のとおり、周りからの刷り込みや思い込みのせいかもしれない――と、今さらながら思ったせいだ。
もし、思い込みだったなら、今更どうしろというのだろうか。
また、ミアディのことを疑いながらも、それでもシュクルとの婚姻を望んでいる村人に対して。
(俺のこの想いは……)
一抹の不安を残しながら、ミアディが村に戻って来る日になった。
その日は、シュクルにとって忘れられない日になった。
***
ミアディは歩いてきたのか、外套の裾が汚れている。なにより驚いたのが、当時十四歳のミアディが、まさか一人で村に戻ってくるとは思わなかったことだ。
いくら、ミアディの父、サリムが亡くなったとはいえ親族がいる。ミアディの年齢と距離を考えて、誰か保護者が同行すると思っていたのに――
「ミアちゃん!?」
いち早く我に返ったエマが驚いてミアディに向かって走り出した。続いてシュクルもミアディに近寄った。
ミアディもその声に足を止め俯いていた顔を上げた。
「…………エマ、さん……?」
それ以上言葉が続かない。
しかも、ミアディの目はどこか虚ろだった。
「ミアディ?」
「……」
どうしたのかと手を差し出すと、ミアディの体が小さく震えた。
「ミア?」
「どうしたの、ミアちゃん。シュクルよ、よく遊んだでしょ。忘れちゃった?」
母エマの取りなす言葉にも、ミアディは首を小さく振るだけだった。
「……疲れちゃったのね。家に行って休みましょう」
エマがミアディを促すように背中に手を添えて歩き出した。
シュクルは何も言えなかった。
家に着くと、エマはミアディを家の中に入るよう促した。催促するようにしないと、なかなか動かないからだ。
とても疲れているという風には見えなかった。
拒んでいる、といったほうが合っているように思えて。
「はい、ミアちゃん」
「……ありがと、ございます……」
外套も脱がず、差し出された湯飲みを恐る恐るといった風に受け取るミアディに、シュクルは、「外套くらい脱いだらどうだ?」と尋ねた。
「あ……少し、休ませてもらったら、家に……戻るつもりですから……」
視線を合わせず、俯いて湯飲みを持ったまま、小声で答えた。
その態度に苛ついて、シュクルは声をかけようとしたが、エマのほうが先に話し出した。
「でも、ミアちゃんが住んでいたお家は、今はあまり手を入れてないのよ?」
ミアディが戻ってくるという知らせが届いてて、すぐにエマが掃除を始めたが、村の外れにあるミアディの家は、まだ人が住めるほど綺麗になっていなかった。
「分かってます。でも、あの家のほうが……落ち……いえ、仕事に便利なので……」
「そう、なら、少し休んだら、シュクルに送ってもらうといいわ。私はちょっとやることがあって……」
「あの……一人で、大丈夫です」
「あら駄目よ。あの家、すぐ住むには足りないものが多いでしょうから、シュクルは荷物持ちに必要よ」
エマの言葉に、シュクルは「おい……」と突っ込みたかったが、あの家に住むというのなら、必要なものは多いだろう。
それよりも、この家に数日滞在したほうが生活しやすいと思うのだが……シュクルの母、エマもそう思っていたのだし。
「無理してすぐに戻らなくてもいいだろうが」
「でも……」
弱々しい反論にシュクルは軽くため息をついた。
「あの……お仕事、しないと……」
「別に急いでする必要はないのよ?」
「でも、わたし……」
平行線だ。反論の声は小さいものの、ゆずる気はないらしい。
シュクル達にすれば、仕事にしても将来のことを考えても、ミアディがここで暮らすことに問題はないというのに。
どうして、それほどまでに前に住んでいた家に固執するのか――分からなかったが、これ以上続けてもミアディは意思を曲げないだろうと判断した。
どうせ仕事で会うことにもなるだろうし、ミアディの身元引き受け人はシュクルの両親だ。繋がりがなくなるわけではない。
ただ、変わってしまったミアディが信じられなかったし、また、これ以上見ていたくなかった。
エマが必要な荷物を用意するのを待ち、シュクルはそれを持って二人でミアディの家に向かった。
その間、ミアディは何も語らず、シュクルはなんとなく落ち着かない状態だった。
隣を歩くミアディを見下ろすと、外套についている雨よけの頭巾を目深にかぶって荷物を抱えて歩いている。
まるで――人を避けているというか、見られたくないようだとシュクルは感じた。
同行者もいない帰省。
対して寒くもないのに、目深にかぶった頭巾。その顔を、表情を見られないようにしているのか。
考えながら歩いていると、ミアディの家にたどり着いた。
「あ、あの……ありがとうございました。シュクル……さん」
「ミア?」
「エマさんにも、……ありがとうと伝えてください」
ミアディは荷物を家のひさしの所に置くと、呆然としているシュクルの荷物を受け取ろうと手を差し出していた。
これ以上、立ち入いらないでほしい、と暗に示していた。
それに、下から見上げてくる視線には怯えと拒絶の色が見えた。
「……っ」
会ったら……言いたいことがあった。
それも、一つだけでなく、たくさん――
けれど、シュクルの口からそれらが出ることはなかった。
手の力が弱まり、持っていた荷物が落ちるような形でミアディの手に渡った。
重さによろけたミアディを見えたが、口元が痺れたように声がでなかった。
「あっ、ありがとうございました」
「あ、ああ……」
拍子抜けした声しか返せないでいると、ミアディが頭を下げて家の中に消えていった。
(なにが……あったんだ?)
ミアディの村人に対する態度に、村人たちの不審はさらに増した。
疑われるようなことがあるから、人目を避けているのだろう――と。
結局、村人たちの猜疑心がなくならないまま、それでも彼らに都合のいいように、シュクルとミアディの結婚が決まった。
ミアディが十五歳になってまもない頃に。
それまでの間、シュクルはミアディと昔のように打ち解けた仲にはなれなかった。