第2章 自覚~思いが通う瞬間-1

 タタタと人のいない廊下を足早に歩いた。リナは少しでもいいから早く執務室から遠ざかりたかった。
 本当は用などない。朝、ゼルガディスに言われた仕事は、今日の午後はシルフィールの相手をすることだ。
 でも、あそこにいるのはなぜか苦痛に感じて、本当に逃げるようにという言葉が当てはまるほど、急いで執務室から遠ざかった。
 彼らの目に留まる所にいたくない。そのため、リナはまずは厨房へと向かった。もちろん食べられなかった茶菓子の代わりを手に入れるためだ。その後は庭の手入れをしているはずのミリーナの所に向かった。
 ミリーナとはルークの乳兄弟であり、彼の想い人であったが、年頃になり働きたいという彼女の意思により、城の仕事に就くことになった。
 ルークにしてみれば、こんな人の多い所ではいつミリーナのことを気に入る男がいないかと心配の種でしかない。けれど、ミリーナの懇願により、もともとガーデニングが好きだった彼女のために、庭師の席を一つ空けたのだった。
 今日もミリーナは温室で季節の花を熱心に手入れしていた。

「やっほー、ミリーナ」
「リナさん」
「おやつもらって来たんだけど、ちょっと一休みしない?」
「そうですね。丁度いい時間ですし」

 銀髪に緑色の瞳をした理知的な女性はリナに笑みを浮かべて答えた。

 ミリーナはルークから、今日五聖家に縁のあるシルフィールが来ることを聞いていた。
 ミリーナ自身も彼女と何度か会う機会があり、彼女の顔は覚えている。彼女たちがまだ十代半ばのころ、ゼルガディスとミリーナは会うと魔法などの話をよくしていた。
 その伝で白魔法に長けているシルフィールと何度か話す機会があったのだ。
 反対に体を動かすのが好きで、剣の稽古に明け暮れていたガウリイは、剣の使い手がいると稽古をつけてもらうためによく家を留守にすることが多かった。そのためガウリイと話をしたことはあまりなかった。
 けれど遠くから見るだけでも、ルークたちと仲良くしているのを見ると、気取っているところがなく、話しやすい人だということはすぐに分かった。
 そのため、惹かれる人が多いことも。

 彼は立場もあるが、一個人としてもとても魅力的な存在だ。ミリーナはガウリイに惹かれることはなかったけれど、シルフィールは分からない。
 伯父であるデビット=ランドールはガウリイの嫁にと積極的だと聞いた。彼女はきっと最初からそういった気持ちで来てるだろう。だとしたら、そういった目でガウリイを見ることは間違いない、とミリーナは簡単に推測できた。
 反対に、ガウリイがシルフィールをそういう目で見ないことも、彼女の登場で目の前の小さな少女が傷つくだろうことも分かってしまう。

「ミリーナ?」

 つい深く考えてしまったのか、リナが心配そうに尋ねた声で現実に戻る。
 目の前にはポットから注がれた香茶が湯気を出していて、二人の間にはおいしそうなクッキーがかわいい包み紙の上に乗っていた。
 そこで、今はお茶をしていたのだと思い出す。

「すみません。ちょっと考え事をしてしまって」
「そう? 疲れているんじゃないの?」
「大丈夫です。それよりリナさんこそ大丈夫ですか? よくあちこちで見かけるほど動いているじゃないんですか?」
「大丈夫よ。前は部屋にこもりきりの時が多かったから、動き回るのは楽しいわ」
「そう、ですか」

 リナは自分の過去をほとんど人に話さない。ただ、時々警戒心を忘れ、ポロリと出る言葉から、リナの以前の生活を推測するのみだ。下手に質問しようものなら、リナはその口を閉ざしてしまう。
 ミリーナはそれが分かっていたので、リナが答えたことには一切触れずに、「頂きます」と言って香茶を口に含んだ。
 リナもミリーナに問い返されなかったため、自分が言ったことに気づかずに、同じように香茶を一口口に含んだ。

「それにしてもさぁ、ミリーナってルークの乳兄弟でしょ?」
「ええ」
「なら、こんなところで働かなくてもいいんじゃないの?」
「それは……」

 ミリーナの母は五聖家の乳母を務めるくらいだから、基本的に身分が低いわけではない。下働きならともかく、乳母という仕事は、知識や教養のある上流階級の家のものでなければ無理だ。
 それを考えると、ミリーナ自身働かなくても生活できるし、ルークと、と言わなくても良縁を望むことは可能だ。

「私も仕事をするのは好きですし……何よりここにはルークがいますから」

 ミリーナは優しく微笑むと、また香茶を口に含んだ。
 本来なら決して表に出さない感情だけれど、リナになら話してもいいかもしれない。
 自分と同じ立場に立つ、いや、もっと辛い立場に立つ彼女になら。

「もしかして、ミリーナってルークのこと……」
「最初は危なっかしくて目が話せないだけだと思っていたんですけどね。でも……」

 気づいたのはいつだったか。
 ガウリイが即位して、ルークが側近として城に詰めることになった時、突然寂しさが彼女を襲った。それまで特になにも感じていなかった屋敷が、やたら広くて閑散として見えた。
 たった一人、人がいなくなるだけで、こうも違うのかとミリーナは自分の腕を抱えて思った。
 だから、だからせめて彼の姿が見えるところにいたいと思ったのだ。身分のことを考えたら、決して彼の想いに応えられないのに、それでも側にいたいと思う。
 自分でも愚かだと思うこの気持ちを、けれど決して変えることができなかった。

「ミリーナ……」
「内緒ですよ。特にルークには……」

 ミリーナは人差し指を口の前で立てて、綺麗な笑みを浮かべた。
 リナにはミリーナの気持ちが痛いほど分かってしまい、なにも言わずにただ小さく頷いた。

 

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