リナ=インバース。
二十二歳。この春大学卒業。商社J.F.カンパニーに入社。
この年の新入社員の中では一番の有望株のため、彼女は入社早々に秘書課へと配属。
――というのは表向きの話。
実際は秘書課に勤めていた社員が一人退社したため、新しい人材を入れることになった。
幸か不幸かこの会社の社長――ガウリイ=ガブリエフは見た目がいいため、並みの女性社員では仕事にならないという、実に信じられない問題がある。
その中で、面接時に社長であるガウリイを見ても、眉ひとつ動かさなかったリナに人事部は注目した。これなら社長の容姿に惑わされずに、秘書の仕事をこなしてくれるだろう、と。
新人にとっては異例の社長秘書。けれども彼女は見事にその仕事をこなし一部で評価を得ていた。
***
いつものようにリナはスケジュール帳を片手に、社長であるガウリイに今日の予定を読み上げていく。
「十二時からはR社の社長と会食、十四時からはM社の専務がいらっしゃいます。そして――」
あくびを噛みしめようと必死になっているガウリイに対し、リナは小さく咳払いすると、ガウリイは慌てて表情を引き締めた。
リナはそれを確認すると、またスケジュール帳に視線を戻す。
「今日は新商品発売に先駆けてレセプションがあります。時間は十七時から」
「ああ、そういやそんなことを言ってたっけな」
「そんなことじゃありません。社長にはスピーチをしてもらうために原稿をお渡ししたはずですが?」
「そうだったか?」
すっかり忘れていた、というような表情であっけらかんと言われて、リナの眉はぴくぴくと上下に動いた。
社長であるガウリイの秘書になってから一ヶ月。彼は物忘れが多く、こんなことはしょっちゅうだ。が、いつものことだからと言って許せるものではない。
特に今回のスピーチ用の原稿は、リナが手がけたもので、言ってしまえば、新商品の紹介と共に、リナの秘書として評価が下される時でもあった。
人事部と秘書課ではリナの仕事ぶりは認められている。が、対外的にガウリイの秘書としての評価はまだされていない。
(だからこそ、頑張って原稿を書いたのに、このくらげはっ!!)
リナは社長のことを“くらげ”と名付けていた。人前ではあまり表に出すことはないが、まさか彼は自分が冗談半分でつけた社名――実はJELLYFISHの略からきている。くらげのようにふにゃふにゃした頭の持ち主――というところだろうか。
彼自身、なぜかくらげがお気に入りのため、社名をつける時に使ったのだという――で呼ばれる羽目になるとは思ってもいなかっただろう。
今では他の人がいないと、リナは容赦なく「こんなことも分からないの? このくらげ!!」とファイルで叩かれている。
ある意味人事部の判断は正しかった。
リナほどガウリイの容姿に誤魔化されず、能力だけを見る人物はいないだろう。前の秘書がやめてから溜まっていた書類は、リナが秘書としてガウリイをしごき、一週間で片付けてしまった。
そう、一部ではリナのことをものすごく過大評価していたため、今日のレセプションでは絶対に失敗できないのだ。ガウリイが文句の付け所がない完璧なスピーチをして、見事な接待ができなければならない。
――と、完璧主義を目指すリナは思っている。
「ほら、とっとと探す! もう一度プリントアウトするなんて手間かけさせないでちょうだい!!」
「お、おう」
ガウリイはリナがファイルを振り回すのを見て、慌ててデスクの上を漁りだした。
探し物はすぐに見つかり、ガウリイはそれを見ながらブツブツと何度も朗読して覚えようとした。
けれども彼の頭はそう簡単に物を覚えるようにできていない。三十分ブツブツと言っていたが、内容は半分も入っていなかった。
「なあ、こんなに長いの覚えないと駄目か?」
「当たり前です。社長のスピーチが短すぎてもおかしいじゃないですか」
「そうかぁ? 別に新商品の説明は専門のやつがするんだし、この辺いらなくないか?」
「え?」
リナは慌ててガウリイが持つ書類を見た。そこには新商品に関する説明が、専門用語を含んでいて、微妙に分かりにくい内容になっている。
あくまで分かりやすく興味を引くようにしなければ、途中で飽きられて聞くのをやめてしまう可能性がある。そのためには専門用語は必要ないだろう。
「そういえばそうですね。なら……ここは省いてください。あ、ここまで」
リナはさくさくといらないと判断した部分をペンで消していく。
「おう」
「そうすれば少しは減って社長でも覚えられるでしょ」
「おい……お前さん、オレをなんだと思っているだ?」
「うーん……会社興すくらいだからある程度は有能だろうけど……多少、無能かと」
「……」
「いや、多少じゃなくてかなり……かしら?」
「…………」
ガウリイはリナの酷評(?)にがくっと項垂れるしかなかった。
考えてみれば、今までガウリイはその容姿のせいで褒められることはあっても、ズバッと駄目なところは駄目と指摘してくれる人はいなかった。
こういう人材は貴重だと思っても、免疫があまりないためつい落ち込んでしまう。
そんなガウリイを更にファイルで叩いてリナは今日のスピーチの仕上げにかかった。
本番に強いガウリイは、レセプションでのスピーチも多少の間違いはあったものの、そんなことは微塵も感じさせず、堂々と乗り切った。
リナはそれを見て、新米秘書はなにかと苦労するものだ、と社長であるガウリイをど突いていることをすっぱり忘れ、ため息をつくのだった。