次の日、『カノン』の前で休業の張り紙を見て、オレはすかさずリナの家に電話した。
いや、リナじゃなくてもいい、オレが行くまでリナが逃げないように捕まえていて欲しいと思った。
数回のコール音の後、ガチャリという音が聞こえる。
『はい、インバースです』
「ルナさんですか? おはようございます。ガウリイです」
『あら、ガウリイじゃない。こんなに朝早くからどうしたの?』
「あの、そちらに今リナはいますか?」
『いいえ、リナは今喫茶店の上で生活しているの』
「え?」
じゃあ、ここに?
オレは『カノン』の前の歩道の前でもう一度『カノン』を見つめた。
『二階が生活スペースなのよ』
「はあ、そうなんですか。あ、ありがとうございます」
この家の二階にリナがいる――そう認識すると、オレは携帯の電源を切って向かおうとした時だった。
受話器越しにルナさんの面白そうな声が聞こえた。
『行っても会ってもらえないわよ?』
「……知ってるんですか」
『いいえ。でもあなたがそうやって聞いてくるってことは、何かしらの進展があったってことだと思って』
……なんて鋭い人なんだ。
今更ながらに、オレはルナさんに対して少し畏怖の念を抱く。
とはいえ、リナに会えないとなるとどうするか。出てくるまで入り口に張り付いてやろうかと思ったが、それをやったら本当にストーカーみたいだ。ルークのことを言えなくなる。
何かいい手はないかと考えていると、またルナさんの面白そうな声が聞こえた。
『とりあえず、そこからならうちへ歩いて来られるわよね』
「あ、はい。場所は覚えてますし」
『よろしい。なら十五分以内に来なさい。リナの家の鍵を貸してあげるわ』
「え? だってここから歩いたら三十分以上はありますよ?」
『走れば充分よね。あ、一分でも遅れたらお仕置きとして鍵は貸さないし、さむ~いさむ~い所に左遷ってのも考えておいてね。そのふやけた頭をゆっくり冷やしたらいいわ。あ、ペンギンさんと仲良しになれるかもしれなくてよ?』
「え?」
『いや? じゃあ、フライパンの上で転がされているような暑さのほうがいい?』
「いえ、どちらも――ってルナさん、そうじゃな……」
『時間厳守よ♪』
ぷちん、ツーツー…
電話は一方的に切られて、しばし呆然とする。
その後ルナさんの言葉を噛みしめて、オレは上着を脱ぐと慌てて走り出した。ルナさんのことだ。本当に一分でも遅れたらどうなることか。
ひたすらルナさんのところまで走る。何も考えずに汗を流して走るというのは本当に久しぶりで、インバース家にたどり着いた時には、着ていたシャツはびっしょりと汗で濡れていた。
荒くなった息を整えて、インバース家のチャイムを鳴らす。するとすぐにルナさんは出てきて、「九分三十二秒。合格よ」と満足そうな笑みを浮かべた。
***
その後、ルナさんが少し話があるということと、汗で濡れたままだと風邪を引くから、ということで、家の中に上げてもらい、親父さんのシャツを借りて着替えることになった。
ルナさんの部屋で落ち着かない感じでもぞもぞと座っていると、ルナさんはコーヒーをトレイに載せて持ってきた。
「リナよりだいぶ劣るけど我慢してね。インスタントだから」
「いえ、頂きます」
差し出されたカップを受け取って口をつけると、確かに安っぽい香りがする。
とはいえ喉が渇いていたので、そのまま口に含むと、舌がおかしくなったんじゃないかと思うほど甘みを感じて堪えきれず叫んだ。
「ぶはーっ! なんですか、これっ!?」
「疲れた時には甘いものが一番なのよ♪」
にっこりと笑みを浮かべているけど、もしかしてこれはリナを泣かせたオレに対するいじめなんだろうか? などと思ってしまうほど甘かった。本人に対しては厳しいのに、他の人相手だと妹に甘い(シスコンとでも言うのか?)姉になるのを忘れていた。
ルナさんはそんなオレの警戒心を察したのか。
「ふふ、私は甘いのが好きだから、同じくらい砂糖を入れちゃったわ」
「ルナさんって甘党なんですか?」
「ええ、そうよ。リナのほうが甘いものからブラックまで幅広いわね。その時の気分で甘みを調節しているわ。やっぱり料理をするだけあって、いろんな味が分かるようにしたいみたいね」
「……知らなかった」
ルナさんが甘党だということも、リナがブラックも飲めるということも。
リナはいつもオレといると、砂糖とミルクを入れていたから。いや、リナは子どもだと自分から決め付けていたところがなかっただろうか。
「あの子もね、いろいろ考えているのよ」
「考えて?」
「そう。あの子がただ自分勝手にガウリイに我が儘を言っていると思った?」
「……いえ、それは……」
「でしょう?」
ルナさんの楽しそうな声に、オレは思い切り頷いた。
今なら分かる。過去を振り返って、リナはわがままをよく言っていたが、それは決して叶えられないものではなかった。
たとえば、何かを食べに行った時には、「中華が食べたい!」という自分の主張をしたけれど、これで財布の中身が少ないというのが分かると、ふくれっ面をしながらも、安いフードコートでも構わなかったり、ファーストフードだったり――どこかで折れるということを知っていた。
今思うと、リナの我が儘は本当にかわいい我が儘だ。
それに、あまりに突拍子もない発言には、オレがそれに驚いた後、いつもおどけた感じで「ガウリイってばマジで信じたの? やーね、冗談よ、冗談♪」と笑って流していた。
「あの子ね、本当は妙に聞き訳がいいの。でもそれを知られたくなくて、よく意地を張るのよね」
「どういうことですか?」
ルナさんは先ほどの楽しそうな顔と違って、真面目な顔になって少しずつ語りだした。
「自分で言うのもなんだけど、私は学校で成績が良かったわ」
「は、はあ……」
「こら、気を抜かないでちゃんと聞きなさい」
リナのことじゃなくて、いきなりルナさんは自分のことを話しだして、オレは面食らった。
けれど、ルナさんは至極真面目で、オレは気を取り直して座りなおした。
「頭のいい姉を持つと妹は大変みたいね」
「そうなんですか?」
「ええ。どこへ行っても私の名前がついて回る。私は初めてだからいい成績を取ると素直に賞賛されたわ。でもリナは……リナは私の妹ならそれくらいできて当たり前。できなければ劣っている――そう思われてきたのよ」
「そんな……いくら姉妹だからって、能力まで同じなわけないじゃないですか」
ルナさんの言葉に、納得いかないものを感じる。
それってリナをリナとして見てないってことじゃないのか?
「普通はね。でもそう見ない人も多いのよ。リナはそれが嫌で、私と同じ道を歩かないことに決めたらしいし」
「そうなんですか?」
意地っ張りなリナの気持ちがなんとなく分かるが、それでもできのいい姉を持ったというだけで、そんなに気にすることだろうか?
ルナさんの話を半信半疑で聞いていると、「あなたのせいでもあるのよ?」と言われてドキリとする。
「え?」
「あなたの気持ち――動かないように見えたから、私には勝てないって思い込んじゃったのね」
「それは……」
「まあ、そのことはおいておくわ。後でお仕置きは覚悟してもらうけど」
「う……」
ルナさんのお仕置きはとても怖そうなんだけどな。リナもよく怖がっていたし。
でもきっと逃げることはできないんだろう。仕方なく言い訳しないでルナさんの話を聞くことにする。
「あなたと別れた後、近くの家政科に編入しなおしたのよ。自分ができることで、一番したいことをするんだって。父さんも母さんもちゃんと説得してね」
「どうして……」
「意地もあったんじゃないかしら? 自分は私と違うんだってことを分かってもらいたいのとか」
ルナさんはそう言うと甘いコーヒーに口をつけた。
「そういうのは分かる気が……」
「基本的に料理が好きだからってのがあるんだけど、大学に進学して、どこかの会社に就職してもやることといったら同じようなものよね。下手をすれば会社の大きさでまた優劣をつけられるわ。だからあの子は自分だけの道を探して歩くことにしたのよ」
「そう、なんですか」
リナがそんなことで悩んでいるのなんて知らなかった。
いつもリナは明るくて、ルナさんに対してだって嫉妬しているような感じはなかったし。
「でも、ルナさんのことを嫌ってはいませんよね?」
「ええ、慕ってくれていると思うわ。でも、あんな風に明るく見せてるけど、本心はあまり話してくれないのよね」
「……」
「でも、あなたに対しては言いたいことも言えてるみたいだったから、安心していたんだけれど……私にはなかなか甘えてくれないのに。私があなたにやきもち焼いてるなんて気づかなかったでしょう?」
「オレ、そんなこと気づかなかったです」
ルナさんの恨みがましい視線が痛い。
そういえば、ルナさんはリナに厳しくもあったけれど、かなりのシスコンでもあった、という事実を今になって思い出していた。
「まったく、こんな薄情な男のどこがいいんだか……。あなたには割と本心から甘えていたってのに……」
語尾に怒気を含まれると、肩を竦めて何も言えなくなる。
「ただ、年の差やあなたがモテることとか気になって、あなたがどれだけ自分のことを思って我が儘を許してくれるのかを、試しているところもあったみたいだけれど」
「オレは……、リナの我が儘はなんでも聞いてやりたいくらい、かわいく思っていたんですけどね」
リナの言うことなら、なんでも聞いてやりたいって思ってた。
でも、ルナさんはそんなオレにびしっと指を突きつけて。
「そこなのよ、問題は。無条件に甘やかすのと、恋愛的な愛情を与えるのとは違うのよ。あなたたちはそれに気づかなかった」
自分がしていた悪いところにぐさりと切り込む。
そうなんだよな。言われてやっと気づいたけど、半分は妹がいたらっていう気持ちと、でも残りの半分はやっぱり好きだからって気持ち――どちらも好意的なものだけど、細かく分ければ違う好意。
なによりオレはルナさんのことが好きなんだと思っていたから、リナにすれば妹みたいに思って甘やかされていると思っていたのかもしれない。
今までのことを思い出して、妙に居心地が悪い気がしてコーヒーを飲む振りをして視線を逸らした。口の中に忘れていたどろりとした甘さが広がる。思わず顔をしかめながら、それでも何とか飲み込んだ。
「それで、今回は何があったの?」
「知ってるんじゃないんですか?」
「私だって千里眼の持ち主じゃないのよ。分かるわけじゃないじゃない」
「まあ、確かに」
「で、何があったの?」
ルナさんは二度目の質問をした。表情は真剣で、とても誤魔化すことはできず、オレは素直に話をした。
リナがルナさんの真似をしてオレの前に現れたこと。
オレはその誘いに乗ってしまったこと。
いろいろあって、ようやくリナが好きだと気づき、リナが変装した女性に別れて欲しいと告げた時に、ふとしたことでリナだったということが分かってしまったこと――
ルナさんはその間相槌を打つ程度で、静かにオレの話を聞いていた。
「なるほど。そういうことだったのね」
「ルナさんはリナから何か聞いたんですか?」
「夜遅く、携帯に電話がかかってきてね。お店を出すのを手伝ってもらったけど、もしかしたら続けられないかもしれない、って。あなたの話を聞いて思ったけれど、あの子のことだから、そのままあそこで店を続けるのが辛いと思ったんでしょうね」
「……だと、思います。たぶん、一番知られたくなかったことを知られてしまった……って思ってると思う」
「そうね」
リナがやけくそで言ったことが本当かもしれないし、もしかしたら、真意はもっと別のところにあるのかもしれない。
リナがどうしてあんなことをしたのか、本当のところは分からない。どちらにしろ、オレがこれからも訪れるかもしれないあの場所で、店を続けたくないと思ったんだろう。
多分、リナが言ってきた我が儘の中で、これだけが本当の我が儘――
「で、あなたはどうするの?」
「決まってます。リナに会って今度こそぜったい言わなければならないことがあるんで」
「言わなければならないこと?」
ルナさんの問いに、オレは大きく頷いた。
「もちろん、リナに『好き』だって」
「……そう、答えが出たって訳ね」
「はい。ある意味、リナがあんな風にしたのはオレにとって刺激になりました。でなければ、オレはずっと自分の気持ちに気づかなかったかもしれない」
「……」
ルビィの存在がオレの気持ちを気づかせた。
あのままルビィに会わなかったら、オレはずっとルナさんに対する想いを恋と勘違いしたままだったかもしれない。
オレは一旦目を伏せると、その後はルナさんをしっかり見つめて。
「リナといるのは自然すぎて、恋してるような感覚がなくて――だから、オレはずっと気づかなかったんです。リナに対する『好き』は、異性に対して誰よりも好きだってことが」
「そう」
「ええ。だからリナに会って、好きだって言って、もう二度と放さないつもりです」
言い切ったオレに、ルナさんは優しい笑みを浮かべた。
そして、ルナさんは机の上にあるものを取って、オレに差し出す。
「あの子の家の鍵よ。行ってきなさい」
「ありがとうございます!」
オレはルナさんから鍵を受け取ると、また『カノン』に向けて走った。
少しでも早く、リナに会えるように――