不意に歪む空間。
黒い塊が大きくなり徐々に人の形を取ると、それはリナに向かって声をかけた。
「こんにちは。リナさん」
「ゼロス……」
リナの目が大きく開いた。今の状況はリナにとってよくない状況だ。ゼロスとの約束を破り、ガウリイと共にいる。自然と唾が出て、それを飲み込んだ。
ゼロスに意識が集中しているのか、扉に手をかけようとしたガウリイたちに、リナは気づかず、それよりも今戻ってこない欲しいと切に願った。
「だいぶガウリイさんと仲が良くなったようで」
「何が……言いたいの?」
「いえいえ、確認ですよ。リナさんは約束を守ってくれるのかどうか」
「……」
「確かに大人しく言うことを聞いてくれるのはありがたいんですが、僕としては足掻いてくれたほうが面白いんですよね」
「あんたを楽しませるつもりはないわ」
そう答えるが、ガウリイの意思と命に重点を置く限り、他にいい案が見つからない。
あまり長く一緒にいるとゼロスにつけ込まれる元だし、リナ自身が別れたあとに辛いと分かっている。
今ゼロスが現れたのは、ただリナから負の感情を引き出すためだ。でなければ、すぐに忠告に来るはずだ。ゼロス自ら見張っているのだから。
「ならいいんですけどね。でもリナさん。そんなに心を乱すなら、いっそガウリイさんを殺してしまってはどうですか? そうすれば思い悩むこともなくなりますよ」
「……っ! あんたには関係ないっ!!」
「いえ、あります。リナさんの行動が僕らの活動の妨げになる可能性だってあるんです」
「うるさいわね。そんなに言うならあんたから滅ぼしてやってもいいのよ?」
リナはゼロスを見て挑発めいたことを言う。
部屋の中は、この世界の神と魔の持つ色――赤に染まっていた。そんな部屋の外からは、この空気に似つかわしくない、子どものさよならの挨拶を交わす声が聞こえる。
まるで、二人がいる部屋だけが、日常から切り離された異空間のようだった。
その中で二人は互いに睨みあう。
いや違う。リナの挑発めいた視線を、ゼロスはさらりと受け流して笑んだ。
「確かに、今のリナさんがそれくらいの力を持っていることくらい知っています。でもそれ以上に、リナさんが自分の力を持て余していることも知っています」
「……」
「リナさんは僕以外のものを壊さぬよう、僕だけを攻撃することができない。今リナさんが力を使ったら、廊下にいるガウリイさんたちの命はないでしょうね」
「……っ!」
ゼロスに言われて、リナは初めて扉の向こうに人の気配を感じた。
「まさか……!?」
「ええ、僕たちの会話を全て聞いていたようですよ」
ゼロスは面白そうに笑った。
扉に近づき静かに開けると、そこにはガウリイだけでなく、ゼルガディス、アメリア、シルフィールがいた。
それを見て、リナはゼロスに嵌められたのを知った。ギリ、と奥歯を噛みしめる。
(こいつ……っ! 全部分かっていてやったんだわ。あたしを追い詰めるために――!)
リナは心の中で毒づいたが、それよりもこの状況をどうかわすかが問題だった。
とはいえ、咄嗟にうまい案が出るわけもなく、それよりも先にガウリイのほうが問うた。
ゼルガディスたちもリナに問いたい表情をしているが、今は当事者であるガウリイに任せるらしい。
「リナ、今の話はどういうことだ? オレは……オレは二年前、オレの命を盾に脅されたとしか聞いてない。だけど……だけどそれ以外に、一体何があるというんだ!?」
「……」
答えられる訳がない。答えてしまったら、今まで我慢してきたことが全部水の泡になってしまう。
リナはガウリイの視線が痛くて、自然に目を逸らした。
「リナさんが答えられないよなら、代わりに僕がお答えしますよ」
「ゼロスッ!」
「止めても無駄ですよ。皆さん、言わなければ満足しなさそうですし」
ゼロスは面白い玩具を見つけた子どものように笑った。とはいえ、子どもと表現するには邪気がありすぎる。
そしてリナはそんなゼロスを止める術を持たなかった。
うつむいて手を握り締めたリナを見て、ゼロスは楽しそうに語りだした。
「確かに二年前、僕はリナさんとそういう約束を交わしました。ガウリイさんたちと接触を絶ち、神に味方するような真似はしない代わりに、ガウリイさんのリナさんに対する想いを封じ、あなた達の安全を約束すると――」
「オレの、想い……?」
ガウリイはいきなり自分のことを言われ、オウム返しのように呟いた。
ゼロスはそんなガウリイの表情を見ながら、酷薄な笑みを浮かべて――
「ええ。ガウリイさんが秘めていた、リナさんに対する恋心です」
***
ガウリイのリナに対する思いと聞いて、シルフィールの体は硬直した。分かっていても受け入れられないものがある。それでも事の顛末を全て聞くまではと、ふらつく体を叱咤した。
怒り、不安、悲しみ、そんな負の感情が乱れる中で、ゼロスだけが楽しそうな表情を浮かべている。そして、それらを更に深めるために、ゼロスはまた口を開いた。
「意外でしたけど、リナさんはかなり献身的な女性ですね。まだ思いを告げられていないのに、それでもガウリイさんの命を守るために離れることを決意し、かつ記憶の操作をより完全なものにするために、その身まで差し出したんですから」
「なん、だと……?」
怒気を孕んだガウリイの問いに、ゼロスはくすりと笑う。
「知らないんですか? 心というものは複雑なんですよ。そのため、記憶操作は少しさじ加減を間違えば、その人を狂わせる要因になりかねない。だからリナさんは最低限にした。自分の存在自体を忘れさせるよりも、ガウリイさんのリナさんに対する思いだけを封じ込めることにしたんです。そうすれば、記憶に曖昧な部分が少なくなると判断して――」
ゼロスは長々語ると、その後「ガウリイさんのくらげ並みの頭では理解できないでしょうが」と付けたし、また嫌な笑みを浮かべた。
「そうそう、更に心を操るのは相手がリラックスした状態が一番いいんですよ。もしくは相手がどれだけ心を開いているか、ね。だからリナさんはガウリイさんを誘い、一夜を共にした――という訳ですよ。分かりましたか?」
語り終えたゼロスは五人をそれぞれ見渡した。
すでに赤く染まった部屋は闇色に染まっていき、明かりのない部屋ではその表情を読むのは難しい。
けれど、五人は感情は大きくて完全に隠すことはできなかった。
信じられない、信じたくないといったガウリイの表情。
とまどを隠せないゼルガディスとアメリア。
青ざめ震えるシルフィール。
そして、手を固く握り締め、俯き表情の見えないリナ。
どれも負の感情を生み出していて、ゼロスはいたく満足した。
「さて、僕は忠告しましたからね。リナさん」
五人はゼロスの言葉にはっとなり、顔を上げた。
闇に解け始めるゼロスに、今まで黙っていたゼルガディスが問う。
「待て! リナの力とはなんだ? なぜ魔族はそれほどまでにリナにこだわる?」
投げかけた質問に、ゼロスは笑み、リナの体が大きく震えた。
「いい――質問です。ゼルガディスさん。いいですか、リナさんはその身にあの御方を降ろした。その痕跡です」
「あの御方――それは『金色の魔王』のことか?」
「いけません。無闇にあのお方の名を口にされては」
わざとらしく顔をしかめるゼロスに、ゼルガディスは短く「いいから答えろ」と、だけ返した。
「まあ、言ってしまえばそうです。リナさんの中には全てを飲み込む虚があります」
ゼロスは嬉しそうに答えた。