早足だったせいか、学校にはいつもの時間通り着いた。
ついでに保健室へと行くくらいの時間があったので、優花は慎一に連れられて保健室へと向かう。
優花は小さな怪我をよくするので保健室の常連だった。保健室の先生と気軽に挨拶してから怪我の話をすると、先生は苦笑しながら棚にある消毒薬で傷口をきれいにしてくれる。
「これなら絆創膏だけでいいわね」
「ありがとうございます」
手馴れた手付きで先生が優花の膝を軽く消毒してから、少し大きめの絆創膏を貼る。
「それにしても、手のかかる幼馴染がいると大変ね」
「全くです、先生」
消毒液を棚に戻しながら先生が笑うと、慎一がすぐに反応する。
その様子に優花は少しだけ顔をしかめた。
それを察したのか。
「あら、渡辺君だけに言っているわけじゃないのよ? 二人ともここの常連じゃない」
「ちょ……もしかして優花と同列に見てるんですか?」
「違うの?」
「違います! 俺は部活で怪我をするだけで……言ってしまえば名誉の負傷! 優花のドジとは違います!」
ドジ、と言われて優花の口元が引きつった。
「……もうっ、怪我は怪我じゃない! シンちゃんが怪我するたびに、わたしだって心配するんだからね。だいたいシンちゃんの怪我は部活だけじゃないでしょっ!?」
反論しながら立ち上がると絆創膏がくにゃっとしわが寄る。でも剥がれることはないようだ。
慎一はさらに反論しようとしたが、先生に時間大丈夫、と聞かれて慌ててお礼を言って保健室を後にした。
その後は慎一と別れて二階の教室へと向かった。
***
「おはよー」
「おはよう、優花」
「あら、おはよう。遅かったわね」
優花の席の隣と前の席には仲のいい友だちがいる。
一人は高木涼子いい、慎一と同じ剣道部に所属している。運動神経がいいせいか腕はかなりいい。
もう一人は香坂まどかという。日本人形を思わせる癖のない長い黒髪。頭が良くて一年の時から生徒会に入ってる。
優花にすると出来すぎた友達だが、二人とも優花のことを気に入ってくれているし、優花も二人のことが好きだった。それに友達は優秀な人を選ばなければいけないという決まりはないのだから、気にしても仕方ないと思うようになった。
「優花どうかしたの? いつもと何となく違うわ」
机の横にかばんを置こうとした時、不意にまどかに尋ねられてびっくりした。
「え? なんで分かるの?」
「いつもより輪をかけてボケッとしてるもの」
「……酷いよ、まどかちゃん……」
「そう言われてみるとそうかも。ってか、あんた目の下に隈できてない?」
涼子は急に席を立って、優花の前に立った。背の高い涼子を、優花は見上げることになる。
なに、と顔を上げたまま首を傾げると、顔に手を添えられて、くいっと上に持ち上げられた。
「ちょっとメガネ取って」
「え?」
「いいから」
「う、うん」
顔を押えられたまま、優花はメガネを外した。
顔を洗った時に、少し眠たそうな顔をしていたのは覚えているが、二人にここまで指摘されるとは思わなかった。
「やっぱり目がちょっと赤いよ」
「あら、泣いたの、優花?」
「な、泣いてないよ。ただちゃんと眠れなかったから……」
「ちゃんと寝なきゃ駄目じゃないの。お肌にだって悪いんだからね」
「寝てはいたんだけど、変な夢だったから寝た気がしないだけ。大丈夫だよ」
なんか過保護な母親を相手にしているような心境だ。
未だに頬を挟まれたまま、心配する涼子に対してそんな感想を抱く。
「ストレスのせいで痩せるなんてダメよ。体に良くないんだから」
「そうだけど……出来ればもう少し痩せたいなぁ、って思うんだけど」
「ダメ。あんたはこの抱き心地が気に入ってるんだから」
教室の中でギュッと抱きしめられた。
涼子に抱きつかれるのは多いので慣れてはいる――が、いかんせんここは教室だ。しかもHR寸前。周りには人が沢山いる。
クラスメイトは、この二人の様子を見るのが初めてではない。またやってる、という程度にしか思っていないが、それにしても、優花にすれば恥ずかしかった。
「涼子ちゃん、時間と場所を弁えてー……」
「わかってるけど、嫌」
あっさり却下されて地味にへこむ。
それに抱き心地だの言われると、抱き枕を想像してしまい、どうしても眉間にしわが寄ってしまった。
「それくらいにしておいたほうがいいわよ」
「まどかがそう言うならやめておくわ」
「涼子ちゃん、わたしがやめてって言うのは?」
「却下。あんたの意見を尊重してたらこんな機会がなくなっちゃう」
「そうね、優花は嫌がって逃げるから」
ぴしゃりと意見を叩き潰されて何も言えなくなる。どうやら優花の発言力は三人の中で一番下らしい。
でもなんでそんなに抱きつくのか、いつも疑問に思う。
「涼子ちゃんって抱きつき癖があるの?」
「ないわよ」
「だって……」
「あたしにとって丁度いい感じのよね、優花って。小ささといい、柔らかさといい――あたしにとってある意味では理想的な体形なのよ」
「は?」
「小さくて女の子らしい体つきが羨ましいのよ。誰かさんはすとーんとしたノッポさんだから」
涼子は百六十五センチくらいだが、部活で動いているせいか、体は細身で締まっている。優花は身長百五十センチくらいで、美容体重より平均体重という肉付き。それにこれといって運動していないので柔らかい。
二人の体格はまったく違う。
「わたしは涼子ちゃんって背が高くてスラっとしてて、いいなーって思うけど」
「ま、お互いないものねだりかもしれないね」
「足して割れたらいいのにね」
「それはさすがに無理だからね。だから、こうしてたまーにいいなーって抱きつくのよ。優花ならぎゅーっとしても友達だから問題ないし」
何が問題ないのか――と、突っ込んでみたかったが、涼子が手を放したのでその疑問は口から出なかった。
優花はカバンを机の横に置いて椅子に手をかけた。
『――助けて――』
「え?」
「どうしたの?」
「優花?」
「今……誰か『助けて』って言わなかった?」
「聞こえなかったけど?」
「私も」
二人には聞こえない声。そして、夢に出てきたのと同じ――
(……まさか家からついてきた? どどどどどうしよう……!?)
本格的に付きまとう――訂正、とり憑くつもりなのだろうか。
それなら明日の休みは寝て過ごすのではなく、どこかの神社にお祓いしてもらいに行くべきか――と、思わず座ることを忘れて考え込む。
「どうしたの?」
「え?」
「似合わない怖い顔してる」
「にあ……いいけどさ。あ、そういえば二人って霊感はないよね?」
「ないわよ」
「霊感? まさか幽霊でも見たの?」
「見たというか……声が聞こえるんだけど……」
優花は心底嫌そうな表情で小さく答えた。
夢を見ただけでは夢と割り切れる。でも、起きていても続くのなら、本当に何かいるのではないかと思えてならない。
「どっかに霊能力者いないかな。後ろ見てもらいたい」
「重症だわね」
「本当」
不思議好きな慎一が傍にいるせいで、優花自体はあまりそういう話をしたことがない。
その優花がこうして話すのだから、かなり本気なんだろうと見えたらしい。
「慎一君には話したの?」
「うん。話したらお母さんからは幽霊で、シンちゃんからは異世界へようこそ? って言われた」
「らしいわね」
「本当。……って先生来たわ」
ガラッと音がするのを見ると、担任が入ってくる。話に夢中で、どうやらHRの時間が始まってしまったようだった。
優花は慌てて席に着き、この話はお昼休みに続きをすることにした。
***
お昼休みは幼馴染の慎一と、涼子の従兄妹の右京を交えて五人でいることが多い。それには学年の違う二人と一緒にいるために、教室ではなく、屋上や食堂に行く。今日は天気がいいので屋上でお昼御飯になった。
屋上は誰が行ってもいいようになっていて、高いフェンスに囲まれている。床も綺麗になっているので、五人はそのまま円を描くようにして座っていた。
「へえ、そんな夢を見たんだ」
「らしいわね」
「カッコいいと思わねえ? 優花ってば、いつの間にかに異世界いっちまったりしてな」
「『助けて』という言葉から『異世界へ』ってちょっと一足飛びだけど発想はいいと思うのよ? ただ、選んだのが、この優花じゃあね」
「盛り上がっているところ悪いけど、異世界というより幽霊説の方が強いような気がするんだけど……」
別に幽霊のほうがいいわけではない。
けれど異世界に呼ばれるより、幽霊なら御払いさえしてもらえばそれで終わる。
なら幽霊のほうがマシ――そんな二段論法での考え方で幽霊説をとった。
「ちぇっ、なんだユーレイか」
「そんなつまらなさそうな顔しないでよ。幽霊だってじゅーっぶん困るんだから」
面白がる慎一を睨みつけながら、優花は卵ふりかけのかかったご飯をぱくっと口に入れた。もぐもぐ数回噛んだあと飲み込んで、それからまた口を開く。
「みんなして面白がって……。わたしは『安眠妨害アンドわたしの後ろに誰かいる!?』状態で本当に怖いんだからね!」
今のところ声だけで害はない。
けれど幽霊に取りつかれたなんて気分のいいものではない。
「大体、わたしに助けを求める辺りでぜったい人選誤ってるよ。だからちゃんと説明してるのに、繰り返すのは『助けて』と『お願い』だけなんだから、もうどうしようもないよ」
行儀悪く箸を振りながら説明すると、『人選を誤った』というところで四人がいっせいに頷いた。
ちょっとムっときたが、事実だから言い返せないので、優花はしかめっ面のまま無言を貫く。
「でも幽霊だった場合、合う波長ってのもあるらしいわよ。もしかしたらその幽霊、優花と波長が合ったからじゃないの?」
「え? それは嫌。というか、合ったとしても困るってば!」
断言しないでってば、とばかりに叫ぶ。幽霊でもなんでも見えない変なのは嫌だ。
というかトラブルは一切お断りしたい。
「でも優花ちゃんって、そういうのを感じやすいんだろう?」
「右京先輩、それは違いますよ? ただ単に相手の気持ちが何となく分かるだけです」
「それだけでも十分だと思うけど」
「でも普通の範囲内だと思うけど。だって「あ、この人今すごく怒ってる」とか、表情とか雰囲気で分かりますよね。あれと同じようなものだし」
本当は少し違うのだろうが、ここで下手に肯定するとまずい。
きっぱりノーと答えてから、今度はデザートに持ってきた一口大のメロンにフォークを突き刺して口に入れた。冷えていないのが残念だが、それでも甘くて美味しい。
「幽霊でもその人の願いをわたしが叶えられるとは思わないし、異世界だったら尚更。ああいうところに行くのは、もともと非凡な人だと決まってるじゃないですか。わたしみたいなのが絶対選ばれるわけないですよ」
物語などである異世界召喚の話は、基本的に非凡な人が選ばれるものだろう。そうでなければ、別の世界から求められるはずがない。
凡人が異世界に行ったとして、一体なにが出来るのか。その辺に居る脇役が一人増えるだけである。ハッキリ言って無理して異世界から呼ぶ意味がない。
と、自分の意見を言えば、右京が困ったような口調で。
「自分のこと、よくそこまで言い切るね。優花ちゃん……」
「だって事実ですもん」
話しながらもメロンを食べ終わると、今度は売店で買ってきたブリックタイプのカフェオレにストローを突き刺す。
こちらは買ったばかりなので冷えていて美味しかった。
「それよりも現実の問題のほうが切実。もうすぐテスト~」
「そういえばそうだったね」
一学期の期末テストが目の前だ。
それに右京、涼子、慎一は夏休みに大会もある。勉強に練習にと、優花よりすることが沢山だ。
しかも右京は今年三年生。大会で部活は終わり、大学受験に専念することになる。かなり忙しいだろう。
「右京先輩は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。それなりになんとかやってるから」
「ですね。先輩なら大丈夫って思います」
右京は志望している大学に合格できるくらいの成績はある。できれば推薦をもらえれば簡単らしいけどね、と涼子が言っていたのを覚えていた。
「それは買いかぶりだよ。それより他に声をかけてもらいたい人がいるみたいだけど?」
「え? 涼子ちゃん?」
「あんた鈍すぎ。慎一くんでしょ」
「あ、シンちゃんは高校入って初めてのテストと大会だもんね」
今年一年生の慎一は初めて体験することが沢山あるはずだ。
一人納得していると、涼子とまどかが深いため息をついた。
「どうして生き物の感情が分かるのに、慎一くんだけにこんなに鈍いのかしら?」
「本当に鈍すぎるわ」
「は?」
「涼子先輩にまどかさん、変なこと言わなくてもいいから!」
「でも相手が優花じゃ、なかなか気づいてもらえなさそうよ?」
「いいんですってば。言うときは自分で言います!」
焦る慎一とからかう口調の二人に、ようやく話が見えてくる。
でもこういう場でそういう話に進むのは嫌なので、気付かないふりをして傍観することにしていた。
鈍いふりをしてカフェオレを飲んでいると、右京先輩と目があって微笑まれる。
(き、気付かれたかな……)
動揺を隠すために両手でカフェオレを持って、思いきり吸う。ずずっと音がして飲み終わると、視線を逸らすためにも、捨てやすいようにとパックを開いて平らにする。
優花は会話からそういった雰囲気を読むのは苦手だ。
でも、慎一の気持ちには前から気づいてはいた。
ただし、気付いていても口にされたこともないし、優花自身の気持ちもはっきりしないので答えられないでいる。
(シンちゃんのこと、好きだけどそういう意味では分からないんだよね……)
鈍いと言われても、小さい頃から一緒にいすぎたせいか、好きというこの気持ちがどれに入るのかよく分からない。
いなければとても寂しい。
けれどそれが恋と呼べるものなのかは分からない。
(だから、もう少しだけ考えさせて。シンちゃんがその一言を口にする時まで……)
タイムリミットはもうすぐだということはよく分かっている。
相手が何も言わないことをいいことに、黙っているのはずるいということも分かってる。
だけど、はっきり自分の気持ちを言えない今は、口を噤むしかなかった。