彼女は気づくとそこは何もない空間に立っていた。
白く、そしてところどころわずかに虹色に輝く空間に。
いきなり知らない場所にいたのか、彼女は呆然としつつ首を傾げた。
夢なのか、はたまた死後の世界というやつなのか。夢ならいいが死後の世界だとしたら、十七年という年月は少々短いように思われる。
それと同時に痛みを感じないだけマシなんだろうか、とも。
少々的外れなことを考えるのは現実逃避したいからだろうか。
あれこれ思いつきそうなことを考えつつ、ここに至る過程を思い出そうそうとしていた。
――助けて……
「え、なに⁉」
いきなり聞こえてきた声に、彼女は周囲を見回す。
けれど、そこは変わらずに白い空間だけがあり、他に人影は見当たらない。
――お願い……助けて……
「そ、そう言われても……どうすればいいの? わたし何にもできないよ? っていうか、わたしのほうこそ助けてほしいんだけど……」
自分がどこにいるかさえも分からないのだから。
不安な声でどこからか聞こえてくる声にあたりを見回しながら返す。
「それより、ここ、どこなの? 教えてよ!」
――助けて……
「だからわたしのほうこそ助けて……って、その前に何をして欲しいのか分からないけど、わたしじゃ無理だし」
――お願い、だから……
「や、ちょっと本当にそれは無理だよ! この状況の場合、わたしのほうが助けてほしい。それに……」
ここでいったん言葉が切れる。
だいたいここがどこか分からず、彼女自身も不安な状態。それなのに人を助けることまで余裕は持てない。
また、彼女は学校での成績も普通くらいだし、運動神経は悪いほうに入るため、誰かの助けになれるほど高スペックな人間ではないと判断している。
そして何も分からないこの状態。
どこをどう見ても自分のほうが助けてほしい、と逆に思ってしまう。
――お願い。助けて……
「ええ⁉ また繰り返し? だから無理だってー!」
――お願い……
「……もう、いい加減にしてよー……」
お願いと助けてを繰り返すだけの声に、彼女は最後に閉口する。
そして白い世界でただひたすらその声を聞き続けた。
***
ピピピ、ピピピ、とカーテンで閉ざされた暗い部屋に電子音が響く。目覚まし時計の音だ。
それを聞いて毛布の中から手が伸びた。見てはいないのに、一回目のチャレンジで見事に止まった。
目覚ましを止めた手は、再び布団の中に戻り、もそもそと少しずつ動き出すと、布団の中で数回伸びをした後、ゆっくりと起き上がった。
「ふあぁ……なんか変な夢見たー」
布団の中から出てきたのは肩につくくらいの黒い髪をあちこちはねさせている小柄な少女だった。
この部屋の主で、名前は佐藤優花という。髪が柔らかいので寝癖がつきやすく、今も起きぬけで変な方向へと向いている。それを手で直しながら、優花は近くのテーブルに置いてあるメガネを取る。
優花の容姿はどこにでもある、言ってしまえば十人並みの顔。ただ黒い目は大きく、年より幼くなるが比較的かわいいと思われるようだ。中の中からほんのり上程度。
けれどその目の大きさもメガネをかけると分からなくなってしまう。
(なーんか夢に出てくる謎の人物に――って、声だけだからどんな人か分からないけど――『お願い、お願い』と連呼されて、その都度無理だよって一から説明しちゃったけど、さすがに夢でも何回も同じことされたら疲れちゃうよ。とりあえず今日一日頑張ったらお休みだから、明日は昼までゆっくり眠ろうかなぁ)
どうも夢見が悪かったようで、目を何度か手で擦りながらグダグダと考える。ギリギリの時間まで寝ていたのにまだ眠いと感じる。
――お願い――
「ま、また⁉」
夢の中の声が聞こえた気がして、優花は慌てて周囲を見回した。けれど、室内には何の異常もなく、ゆっくりと体の力を抜いた。
やはりまだ完全に目覚めてないようだ。そして夢だ夢、と思いこむ。どうやら変な夢のせいで多少神経過敏になっているのかもしれない。
頭を軽く振って声を頭から追い出した。
そのあとは急いで部屋から出て顔を洗って戻ってくる。パジャマを脱いで、ハンガーラックにかかった制服に手をのばした。制服は薄い藤色の布地に、襟と袖口だけ白いワンピース。靴下は短めの白いソックス。これは優花の通う高校の制服だ。公立の割りに制服がかわいくて、優花はとても気に入っていた。
準備を整えると、カバンを持って部屋を出て、トントンと身軽に階段を降りていく。居間に入るとテレビがつけっぱなしだ。いつものように父がつけたまま仕事に行ってしまったようだ。
優花は少し呆れた顔をしてからテレビを消した。そのあとソファにかばんを置いて、台所に向かう。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、今日はちょっと遅かったわね」
言われて時計を見ると、いつもの時間より五分ほど遅かった。
「あ、本当だ。なんか夢見が悪くて、目覚めが悪かったからかな?」
「あら、それは大変ね。優花を悩ませるなんてどんな夢なの?」
優しくておっとりしたように見える母だが、こういったところは鋭い。短いやりとりでしっかり状況を把握できる。
彼女は手に焼き魚を持ってダイニングテーブルに近づいた。
優花と同じ黒い髪を後ろで一つにまとめている。顔立ちはこれまた優花と同じくあまり特徴のない顔立ち。けれどその表情から優しい人だと思われる。
「うーん……なんか『助けて』ってのを繰り返すだけなんだけど……」
「あら、優花ってば、いつの間にかに霊感も身につけたの?」
「はあ?」
「だって幽霊の声が聞こえたんでしょう?」
(いやっあの、ユーレイってあのユーレイのことっ⁉)
助けてという夢だけで話を飛躍させないでほしい。優花は頬を引き攣らせながら否定した。
「ゆ、ゆーれーじゃ……ないもん。そ、それよりもこの子、ちょっと調子悪そうだよ?」
優花はカウンターに置いてあるサボテンを見て、いつもより元気がなさそうだと思った。
また、話を逸らすためにも、別の話にすり替えようとした。
「あら、そう? 優花の言うことは当たっていることが多いのよね。ちょっと日の当たる所においてみようかしら?」
優花の母はキッチンから料理をトレイに載せてダイニングテーブルに近づいた時に、カウンターに置いてあるサボテンを見た。
「ちょっと様子を見ていた方がいいと思う」
「そうするわ。はい、ご飯」
「ありがとう」
優花は母が用意してくれた朝食を前に、椅子を引いて座る。
軽く「いただきます」と手を合わせてから、箸を持つ。
さて、そのままご飯を食べて、あの変な夢は忘れ――
「さっきの話だけど、何なのかしらね?」
「話戻さないでほしい……。でも、本当に助けてほしいなら、わたしじゃ無理だと思う。他に行ったほうが絶対いいよ」
「まあ、優花の成績ならそうかもね」
先ほど母が『霊感も』といったように、優花は少しだけ不思議なものがある。ものと表現するのは、明確に『力』と言えるようなものではないからだ。
優花は多少感情というものに敏感だ。表情からそれを読み取るのではなく、“感じる”のだから、他の人とは少しばかり異なるかもしれない。
そんな優花がもつ何かを、彼女の母は否定したことがない。反対に面白がって大げさにすることもあった。
しかし、娘の否定を笑顔で肯定するのも如何なものか。
「う……お母さん何気にひどい」
優花はボソリと不満げにつぶやいた。
「ふふ。親が親だから優花の成績は妥当でしょう。優花が天才だったら私たちが困るわ」
要するに『蛙の子は蛙』と言いたいのだろう。
優花の両親も特に秀でた成績ではなかった。そのため優花に過剰な期待はしていない。そのことを優花本人にもしっかり伝えてある。
「それもそうだね」
「そうよ」
「ということで、あれはただの夢に決定~」
「あら残念。お話が進んだら教えてね」
「進まない進まない。冗談じゃないよ」
それにあれだけ無理だって拒否しまくったからね、と優花は心の中で呟く。
気分がすっきりとしたので朝食をとることにした。佐藤家の朝食は和食が多い。パンは学校の売店で買うことができるので、朝はご飯を食べる。
それにしても、寝坊した上にこのやりとり――時間がない。急がねば。
「いただきます」
再度、手を合わせてからお箸を持て食べ始めた。
どうも空腹になると不安になるらしい。逆に満たされるとその不安は緩和されるようだった。