唇は触れただけ。恋人とのキスのようにそれ以上深くなることはなかった。
すぐに離れてある程度の距離を取る。
「ま、ここにいる間、口説こうと思うんでこういう意味でよろしくな」
「ななななな……なにをするっ!?」
「男でも女でも押し倒すほうが好きって言ったのは、ミオのほうだからな」
「だからって私にするな! さっきの侍女のほうがよっぽど美人だったぞ!」
更にずさっと後退って唇を手の甲で擦る。
男と思われてるのに、ヤローにキスされるなんて誰が思うか!
「ん? ああ、さっきのも綺麗だったな。でもミオに決めたから」
「なにを?」
「今回の獲物。」
こら待て。誰が獲物だ。おかげで目が点になってしまったぞ。
反対にアスル・アズールの目は妖しい光を放つ。うわ、ぞくっと背筋に嫌なものが走る。
「ちょっと待てえぃっ! あんたは同性愛の趣向でもあるのか!? さっきは嫌だとか言ってたじゃないか!!」
「いや、特に同性愛が嫌だとか思ったことないけどな。フィデールに迫られるのが嫌なだけで」
「なんだその中途半端な考えはっ! 今すぐその考えを改めるんだ! 道を踏み外しちゃあいけない!」
うわ、なんだその基準は!? どちらにしろ標的にされるのは堪らない。
アスル・アズールを睨みつけて人差し指でびしっとさした。
ヤツの余裕に満ちた顔が憎らしい。フィデールはと言えば、片手で頭を押さえながら深い溜息を吐いていた。
「道、ねぇ?」
「……無理ですよ、ミオさん」
強気になったアスル・アズールに、フィデールも気を取り直したのか参戦する。
うわ、ヤバイ。二対一だ。それに口だけならともかく、手でも出された日には――おおおおお恐ろしすぎる。
想像してさーっと血の気が引くのが分かる。ってか、本当に血の気が引くってあるんだね。なんて冷静になろうとしても、冷静になりきれない。
「なんで!?」
「ラ・ノーチェは夜の国ですよ」
「だからそれが何!?」
「司るは夜――そういったことに対して、この世界の中で一番奔放な国なんです」
「ほ、ほんぽー……?」
なんなんだ、その国は!? 狐狸妖怪の類はいないと聞いていたけど、そういうことにほんぽーって……なんかものすごく嫌かも。
薄笑いしているアスル・アズールを見て、頬に一筋の汗が伝う。
「俺の国は同性、異性問わない気質だ。お互い気に入れば問題ない」
「は、はい!?」
「問題なのは一つだけ。力尽くで、というのくらいだ。それ以外はお互いの同意さえあればなんでもありだ」
「……な、なんつーおそろしー国だ……」
な、なんて……恐ろしい国なんだ。いや、恐ろしいというかなんというか……別に私としては異性愛だろうが同性愛だろうが、お互いがいいならそれでいいと思う。特に気にしない。
だけど自分に矛先が向いた場合は別だ。
……って、私の場合、同性愛なら本当は女性が相手になるけど。
どちらにしろ、恋愛については苦い思い出しかない私には、そういった対象にされるのはご免だ。
「夜はある意味一番心を開放できる時でもありますからね。だから彼の国ではそういったことに対して寛大なんですよ」
フィデールが苦笑しながらアスル・アズールのほうを見る。
アスル・アズールもそれに同意するかのように頷いた。
……って、それはちょっといくらなんでも……
「か、寛大すぎるー! 種の保存を考えたらもうちょっとその考えを改めようよ! 本能はどこ行った!?」
「だからそういうのが本能だろ? 俺としてはそういう所で育ってきたんで特に抵抗は感じないしな」
「ちょっとは抵抗感、持とう! それを基準に考えちゃ駄目! ついでに獲物って言葉も的確じゃないから! 普通、好きになった相手のことをそんな風に言っちゃあいけない!」
アスル・アズールの肩を叩きながら真剣な表情で言う。
だいたい好きになるとかならともかく、標的という時点で絶対間違ってる!
「私の世界に『郷に入りては郷に従え』って言葉があるんだけどね! アスル・アズールもここに来たらそれなりのモラルってのを持とう!」
「『ゴウニイリテハゴウニシタガエ』?」
「なんですか、それは」
「う、だから……他の土地に行ったら、その土地の風習に従うってのが一番いいってこと。だからアスル・アズールも故郷を基準にするんじゃなくて、この国の風習に習うべき!」
びしっと指差し断言。ここで怯んでは相手の思う壺だからだ。
だから気づかなかった。意気込んで使った言葉が日本語だったことに。
そして、言葉の意味ではなく、私が日本語を使ったことに二人が驚いていたことにも。
***
あれからひと悶着あって、でもなんとか凌いで――そして今やっと自室へと戻った。
暗い部屋にロウソクに明かりをつける。
これにはちょっとした魔法の練習を兼ねて、火打石を使わずに呪文を唱える。
「――すぅ……。『ベーラ』」
魔法の呪文って言うのは今話してる言葉とはちょっと違う。それ専用の文字がある。
それには力が宿っているらしい。その言葉で精霊の力を借りるのと、術者本人の思いと制御によって成り立つ――とのこと。
どちらが欠けても駄目。発動しないか、下手をすると力が逆流して術者に跳ね返るらしい。前者ならいいけど、後者の場合危険なので、自然と見合った力までしか手を出さない人が多い。
だからフィデールのように力がある人はこき使われるんだよね。
私は現在その見極めの最中。今のはロウソクに明かりを灯すというごく小さな魔法なので、失敗することはほとんどないもの。
もう少ししたらもっと派手なのを使ってみたい。同じ要領で部屋の中の燭台に乗っているろうそくに明かりを灯していく。
「一個一個ってのが面倒くさいな。ニホンなら――」
……って、あれ?
今、私『日本』って言ったのに、『ニホン』って言わなかった?
なんていうのかな、日本の言葉なのに、外人がカタコトで話してるような、そんな発音。なんか微妙に発音が違う。
「な、なんで?」
ちょっと待ってよ。ここに来た時、確か私きちんとフィデールに名前名乗ったはず……。
それに病院とか集中治療室とかそんなことをも言った。フィデールも訳のわからない言葉って言ってた。
いつの間にか日本語を話せなくなってた?
「あ、あれ? ニホンゴ、ニホンゴ、ニホンゴ……」
頭の中では『日本語』という単語を日本語で表そうとするのに、出てくる言葉はこの世界の言葉というか微妙に日本語と違う言葉。
「なんでなんで?」
ロウソク、火、灯す――脳内では日本語なのに、口から出るのは別の言葉。
なんで? なんで私日本語が話せないの? ここに来た時話せたじゃないか。
こうなると意地でも話したくなるというか……ロウソクを前に何度も火と口にする。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、……」
最後のほうはやけくそ気味で叫ぶ。
「ええい、『火』!」
ぼうっ!
この世界の言葉を繰り返したあと、簡潔な日本語――火という言葉が飛び出る。
同時にロウソクに勢いよく火が灯る。
「日本語、なのに……なんで魔法が使えるわけ?」
それにロウソクに明かりを灯すような小さな火じゃない。その気になれば薪に火をつけることが出来そうなくらいだ。
「さっきはただ単に火をイメージした……から? じゃあ……」
何となく、私は乙女の魔法の意味を分かりかけてる気がする。
そして、これは確認。
でも……確認してどうする? 確認して、自分が乙女だと確定してしまったら?
その事実を前に身震いを感じながらも、白黒つけたい気持ちのほうが勝つ。ロウソクの先に指先を近づけ、すうっと息を吸い込む。
そして。
『明かりよ、灯れ』
出てきた言葉は日本語。要領が掴めてきたんできちんとした日本語になった。今度は軽く、ぽっという音とともにロウソクに明かりが灯る。
やっぱり日本語が――というより元の世界の言葉が、この世界では乙女特有魔法になるんだ。そして、この世界の魔法の言葉より、異世界の言葉のほうがより強い。
でもそれを知らずに無意識に使ったら、それこそ大惨事になりかねない。だから、ここに迷い込んだ別の世界の人は、元の世界の言葉が話せなくなるんだ。
そう考えると今までのことが納得できる。私はここに来てからずっと、この国の言葉しか話してなかった。話したくても話せなかったんだ。何らかの力が働いていて。
そして自力でそれを取り戻したときに、その言葉が“玉の乙女”の力になる――やっと納得いく考えがたどり着いて、私は自然に咽喉が上下した。
と、とりあえず落ち着こう。うん。まだバレてはいない。
ドキドキする心臓を宥めつつ、どうしようかと周囲を見回すと、姿見に自分の姿が映る。
「あ……髪……」
実はすでに生え際に黒い色が見え隠れている。
一応目くらましの魔法で誤魔化しているけど、これ以上は無理だろう。今日も持続させるためのアイテムを購入し損ねたし。
なら――
『金髪に変われ』
姿見で自分の姿かたちを想像しつつ、髪の毛が金髪になるよう念じながら日本語を呟く。
すると、生え際もしっかりと他の所と同じ色に染まる。
「よっし! じゃあ次は――『緑色の瞳に』!」
こればかりはよく分らないんで、恐る恐るコンタクトを外してみる。
そして姿見で確認すると、コンタクトをつけた時と同じ瞳の色のまま。
「やった! じゃあ、更に――『このまま固定』!」
ふわっと何かに包まれたように感じながら、この姿が定着したことが分かる。
ふふふ、これで乙女だと怪しまれることはないだろう。その間にさくっとフィデールに元の世界に戻してもらえばいいのだ。
どうもフィデールも乙女召喚は嫌そうだし、アスル・アズールの話が本当ならラ・ノーチェのほうも歓迎してないようだし。うん。これで危険からおさらばって感じかな。
やっほー! 明るい未来が待ってるじゃん!?
やっぱり日頃からいいこと(?)してるから、こういうことになるんだね!
ふはは、ザマアミロ。アスル・アズールなんて変人とはすぐにおさらばだーっ!!
薄暗い部屋の中で、思わず私は万歳をして喜んだ。
すこーし意味不明な喜び方もあったけど。