第6話 三日目の夜

 地界――
 やっと三日間の婚礼が終わった、というのがクレアトールの感想だった。
 華やかすぎてこの三日間は終始ドキドキしっぱなしだったし、来る人達に笑みを繰り返していたため、顔の筋肉が引きつりそうだった。
 やっと思いでその宴が終了すると、今度はレイラに連れられて湯殿に向かった。

「お湯加減はいかがですか?」
「丁度いいわ、ありがとう。気持ち良くてほっとするわ」

 温かい湯につかりながら、三日間の疲れを癒やす。
 湯船には香りのいい花びらがいくつもゆらりゆらりと浮かんでいて、その香りを胸一杯に吸い込んだ。

「三日間、本当にお疲れ様でした。お体が弱い仰っていたので心配していたのですが……」
「そうね。頂いたお薬のおかげかしら。飲んですぐは調子悪かったけれど、今は逆に調子いいくらいよ」
「そうですか、それは良かったです。ではそろそろ上がっていただけますか?」
「ええ、そうね」

 体は十分温まっていたので、クレアトールは素直に湯船から体を起こした。
 水しぶきを飛ばしながら、クレアトールは湯船から出ると、レイラはすかさず柔らかい布でクレアトールの身を包んだ。その布で水気を取ると、用意された薄い夜着を身につける。
 もう休むというのに軽く香水を付けられそうになって、クレアトールはいらいないと拒否した。

「ですが……」
「もう休むだけよ。必要ないわ」
「でも……」
「それよりも部屋に案内してちょうだい」
「……はい」

 レイラは少し気に入らなさそうな表情をしながら、それでもクレアトールを部屋へと導くために湯殿の扉を開けた。
 これでゆっくり休める――とクレアトールは心の中で一息つく。
 通された部屋はかなり広かった。けれど、落ち着いた雰囲気を感じる。あちこちに置かれた燭台の灯りに照らされて、調度品や寝台が目に入る。どれも精巧な細工を施された物ばかりだ。
 クレアトールがあちこちに目をやっていると、レイラは静かに告げた。

「ルシファー様もあと少しでこちらに来られるようです」
「そ、そう」

(そうよね、結婚したんですもの。一緒の部屋なのは当たり前……よね)

 一瞬にして、これでゆっくり眠れる――と安心した気持ちが消える。
 三日間の宴のあとなのだから、少し話をするくらいだろう、と考えを改める。

「なら待っていなければいけないわね」
「そうですね。では私はこれにて下がらせて頂きます」

 レイラはくすっと小さく笑みを浮かべる。その真意が分からず、クレアは「三日間付き合ってくれてありがとう」と笑みで返した。
 礼をして立ち去るレイラを見送ると、クレアトールは寝台の端に腰かけた。
 やはりまだ結婚したという現実が認識できない。ふう、と一息ついてこれからどうすればいいのか悩む。
 少しすればあのルシファーが来る。クレアトールより、三歳も年下の青年が。

(とにかく少し彼と話をしよう。それからだわ。私は彼のことを何も知らないんですもの)

 クレアトールは手を握りしめると、彼が来るのを待った。

 

 ***

 

 待ったのはほんの少しの間だった。けれどクレアトールにとってはとても長く感じた。
 重い扉が開くために軋む音。それから黒い髪の青年が入ってくる。
 クレアトールよりも高い身長、体つきもしっかりしていて大人の体に近く、とても十六歳に見えない、というのがクレアトールの感想だった。
 彼は寝台の端に座っているクレアトールの前に立つと徐に口を開いた。

「遅くなって済まない」
「いえっ」

 慌てて反応して短い言葉しか出ない。
 こういう時、何を話していいのか全く分からない。せっかく話をする機会なのに、きちんと会話できなくてどうするのか。
 クレアトールは心の中で自分に対して叱咤する。それだけ対人能力がないことも悔しかった。

「どうした?」

 頬に触れる手で我に返ると、クレアトールは矢継ぎ早に語り出した。

「あの、私で良かったんでしょうか? ルシファー……様は私より若いですし、本当なら妹のマリアベールのほうが良かったのではないかと。すでにお薬を頂いてしまっている以上、言っても仕方ないのかもしれないですが、それでも、もしこの結婚がお嫌なのでしたら……」

 本当はこんなことを言いたいわけじゃないのに、出てくるのは自分を否定するような言葉ばかりだった。
 どうして一言よろしくお願いしますと言えないのか、言葉を紡ぐ度に自分が嫌になる。
 次第に声も小さくなり俯きかけたところに、顎に手をかけられた。

「あ……」

 手に促されて顔をあげると、ルシファーと視線が合う。
 深い闇色の瞳と思っていたのに、明るい所はうっすらと翠色を帯びていた。その不思議な色に見惚れていると、彼の顔が近づく。
 あ、と思った瞬間、クレアトールの唇は塞がれていた。
 驚きに目を見開くと、すぐに離れる。
 そして。

「貴女が心配するようなことは何もない」

 静かな、でもしっかりとし口調で言われて息を呑む。
 けれど本当にそう思ってくれているのか、まだ自信がなかった。
 もう一度尋ねようとして口を開く。けれど、声にするよりも先にもう一度唇が重なった。
 先程より深いそれは、開いた唇からルシファーの舌が潜りこんだ。反射的に逃れようとして身を引いたが、いつの間にかに首と腰に回された腕に邪魔をされて、逃れることは出来なかった。
 遠慮なく入ってきた舌はクレアトールの口内を動き回る。それが嫌で押し返そうとすると、逆に絡められてしまう。

(なんなのなんなのなんなのこれーっ!?)

 初めて交わす深い口づけに頭が混乱した。
 クレアトールの不幸は結婚というものがどういうものか、きちんと理解していないことだった。
 外に出たことがほとんどない彼女の趣味は読書だった。勉強に使う本から娯楽のためのものまで、様々なものを読んだが、結婚とは好きになった男女が一緒に住むという程度の知識しかない。
 だから彼が何をしようとしているのか分からなくて怖かった。
 いつの間にか夜着の前の袷を開かれて、彼女のものより大きな手が滑り込んだ。胸に触れた瞬間、反射的に声を上げた。

「いっ……いやっ!」

 いきなり上げた声に驚いたのか、ルシファーは手を止めた。その隙に急いで夜着を直す。
 するとルシファーが小さくため息をつくのが聞こえた。

「貴女には……誰か好きな人でもいたのか?」
「えっ?」

 急な展開に、さらに急な質問に戸惑い答えられずにいると、ルシファーがまたため息をつく。
 クレアトールは訳が分からず身の置き所がないような気がした。

「あの……」
「誰か想う人が居たのかと尋ねている」
「いえ、そのような方は……」
「ならなぜ拒む? 嫌なら何故この婚姻に反対しなかった?」
「……」

 これはもしかして嫌がってはいけなかったのかと、クレアトールは後悔した。
 けれど先程の行為はクレアトールにとって初めてのことで、思わず驚いて拒否反応をしても仕方ないのだが――相手がそれを知るわけがない。

「あの、申し訳ありません。初めてのことで、その……何をしようとしているのか、全くもって分からなかったので……」

 弱々しい声で返す。
 ルシファーの目が一瞬見開かれた後、場にそぐわぬ笑い声が響いた。

「あの……?」

 ははは、と笑うルシファーにクレアトールはなぜこんなに笑われるのだろうかと、おずおずと口を開いても、まだ笑い続けている。
 だんだん腹が立ってきた時、ルシファーの笑いは収まりだしたのか、声が小さくなった。

「あの……っ!」
「すまなかった。貴女が重度の箱入り娘だということを忘れていた」

(じ……重度の箱入り娘……)

 確かに箱入り娘といえばそうなのだろう。
 けれど、年下の、しかも結婚した人に言われるのは少々……いや、かなりの衝撃を受ける。

「いくらルシファー様でも失礼です!」

 この辺りでクレアトールの中は困惑よりも怒りの方が勝っていたのか、いつもの口調でルシファーを睨みつけた。
 ルシファーはその視線を受けて、今度は優しい笑みになる。
 クレアトールには彼の行動が全く分からなかった。

「どうやら気の強さは変わってないようだ」
「え……?」
「これからすることは貴女にとって初めてで、少し怖いことかもしれない。けれど、結婚したら避けて通れないものだと思う」
「……」
「しばらくの間、我慢してほしい」

 真剣な表情で言われると頷くしかない。クレアトールは軽く頭を下げた。
 同時に柔らかな寝台にまた戻される。顔が近付いたと思えば、口づけではなく左側の耳に息がかかる。
 体を硬くすると、ルシファーが耳元で囁いた。

「大丈夫、貴女を傷つけるようなことはしない」

 少し前は怖いことだと言って、今度は傷つけないと言う。言っていることが滅茶苦茶だ、と言いたかった。
 けれど次の言葉を聞いて、クレアトールは言葉を失った。

「あの時からずっと好きだった――クレアトール」

 

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