天界は光が頭上にあるため天候がなかった。
何もなければ明かりが降り注ぎ続けるこの天界は、時間になるとミカエルの力で光を遮る。それが人間界では夜にあたり、天界では薄暗い程度のものになる。
人間界と違う“夜”にマリアベールは驚いたが、慣れるのは早かった。
彼女の世話についてくれた女性は親切で優しかったし、この世界に早く慣れるようにと、“ミカエル”であるユリアも話をできる機会を設けてくれた。
今も彼と二人、のんびりとお茶をしている。
「少しは慣れましたか?」
「はい、ユリア様。エリスもとても親切で優しくて、まるでお姉さまみたい。おかげで寂しいとは思わないでいられます」
人界を去る前は覚悟をしていたのに、天界の人たちは皆マリアベールに好意的で、身構える必要などなかった。だから慣れるのも早かったのだろう。ユリアに返した答えは彼女の本心だった。
「それは良かった。正直、貴女が帰りたいと言ったらどうしようかと思っていたのです」
意外なことにあまり郷愁を感じないのは、向かいに座る人物のおかげか。
侍女のエリスは姉のように、そしてユリアは兄のように感じる。
夫となる人を兄と表現するのは可笑しいが、今のマリアベールにはその表現が一番しっくりくるので仕方ない。でもこの二人のおかげで帰りたいという思う気持ちは強くなかった。
「それは……その、全くないわけではありませんけど。家族にはたまに会いたくなりますもの」
マリアベールは少し照れながらカップに口をつけた。白い陶器のカップは落としたらすぐ割れそうなほど薄いので注意が必要だ。
テーブルの上には同じデザインのポットと、小さめの平らな皿。その上には柔らかそうなシフォンケーキ。上に白いクリームがかけられて、横には赤紫色をしたのジャムが添えてある。マリアベールはそれをフォークで一口大にとり、そっと口に運んだ。
「美味しい」
「そうですか?」
「はい。でもこんな風に時間を使っていて大丈夫ですか?」
「どういうことですか?」
「だって……ユリア様は次代のミカエル様だとお聞きしていましたが、すでに任に就いているなんて。私のために時間を取っていただけるのは嬉しいですが、少し心配です」
マリアベールはここに来て初めて、半年前にミカエルが代替わりしているのを聞いた。
ミカエル、ルシファーは人界で行われる大祭の一年前に就任するという。
大祭までの一年間は先代からの引き継ぎ期間であり、また新しい者がその任に相応しい者かを見極める期間でもあるらしい。
「大丈夫です。先代のミカエル様もいらっしゃいますから。それに、貴女との時間を大事にしなくて何をしろと言うのですか?」
「そ、それは……」
ユリアはマリアベールを伴侶に選んだのだから、彼の言うことは分かる。
マリアベールも二人の時を大事にしたいと思う。何気ないひと時も彼を知ることのできる時間なのだから。
でも、ユリアの口から愛の言葉は聞いたことがなかった。
「わ、私分からなくなりました」
「何がですか?」
「どうしてユリア様と“ルシファー”様は私達を選んだんでしょうか。しかもどちらでもいいだなんて――」
「それは……ですね」
「はい?」
マリアベールはドキドキして身を乗り出してしまう。
けれど、ユリアは「今は内緒です」と答える。
「ええー!?」
「すみません。今はまだ……」
ここにいる理由を知りたかったのに、ユリアは軽くかわしてしまう。
途端に「残念」という顔になった。
「どうしてですか?」
「そうですね……、私は貴女のことを知っていますが、貴女は私のことはほとんど知らないでしょう?」
「はい……」
マリアベールが知っていることは彼が新しい“ミカエル”であること。彼の名前がユリアということ。
そして、とても優しい人だということ。
「私が知っていることは、ほんの少し……後は私から見てユリア様がどういう方か――だけです」
他の人に聞いても総じて優しい人だとしか返ってこない。もちろんそれに異論を唱える気はない。
本当にその通りだとマリアベールも感じている。けれど、それ以上に知りたいと思うことが多かった。
「私にとって、今はそれだけで十分なんです」
「でも……私は……」
ここにきてすでに十日は経っているのに、ユリアはマリアベールとお茶をして話をして、一緒に庭を歩いて――それしかしていない。
結婚というのもがどういうことか、多少なりと知っているマリアベールには、これでは普通の友だちと変わらないのでは、と思う。友だちと変わらないのでは、何のために自分はここに来たのだろうか。それが気になって問うのに、答えは返ってこない。
「貴女にはいきなり結婚といって、ここに連れてきてしまいました」
「……そう、ですね」
とても急な話だった、とマリアベールも思う。
天界と地界の使者の訪れからここに来るまで、本当にあっという間だった。同じ時に地界に嫁ぐことが決まった姉、クレアトールとも、話す機会が一度もなかったくらいに。怒涛といえる日々を振り返えると、自然とため息がこぼれた。
そして一息ついてから紅茶を口に入れて気を取り直す。
「思い出しただけでとても疲れるでしょう?」
「あっ、はい!」
マリアベールは駆け引きをするには純粋過ぎる。思わず素直に返事をすると、ユリアはくすっと笑う。
「それだけ急いでここまで来てしまったんです。その後は少しくらいゆっくりしてもいいでしょう」
「……」
「今のところ、貴女は私のことを兄のようだと思っているようですしね」
「すみません……」
思っていることを言い当てれてマリアベールは頬を赤く染めた。
マリアベールは現在十五歳。ユリアとの年の差は九歳もある。やはり夫というより、兄というほうが合っている。でも、マリアベールは結婚するために来たのだ。
だから。
(本当は旦那さん……になるのに、兄のようだというのは失礼よね?)
紅茶の入っているカップを両手で持って、表情が隠れるようにする。
ユリアはそんなマリアベールの気持ちを察してか、なにも言わずにカップを手に持ち、静かに紅茶に口をつけた。
マリアベールはしばらくの間カップを持ったままだった。その間、ユリアの態度が変わらないので、カップをテーブルに置いてからフォークでケーキを一口大にしてから口に運んだ。
ひと時の間、そのまま静かな時を二人で過ごす。
マリアベールはこのゆったりとした時間が嫌ではなかった。いや、それよりも好きなほうだ。家族とは違うけれど、同じような心地よさがある。
それにユリアに見つめられると、その表情はとても静かなのに、なぜか鼓動が速くなる気がした。
(もしかして、兄のように……じゃないのかしら。好き……なのかしら?)
マリアベールは心の中で呟く。
この気持ちが高まれば、いずれ恋といえるものになるのかもしれない。
「ゆっくりでいいんです」
「ユリア様?」
フォークを皿に置いてユリアの顔を見上げる。
いつもの、穏やかな笑みを浮かべたユリアが目に入った。
「ゆっくりでいいんですよ。急いで答えを出す必要なんてないんです」
「ユリア様」
「急ぐことも、答えを決めつける必要もないんです。これ以上、貴女を急がせるつもりはありません」
「……はい、ありがとうございます」
マリアベールの気持ちを察したのか、ユリアは思いこもうとしていたマリアベールの気持ちに歯止めをかけた。無理やり思いこむ必要などないのだと。
その言葉でマリアベールの気持ちはすーっと引いていく。けれど、それは全て冷めず、残り火のように心に燻っていた。
少しずつ、マリアベールの心は変わり始めていた。