隣の部屋で小さな物音がしてガウリイははっと顔を上げた。
それまで、自分はなんであんなことをしたんだろうか、と頭を抱えていた時だった。
どうしてその小さな物音に気付いたのか分らない。
けれど何か思うところがあり、慌てて窓を開けた。すると、道路に飛び降りたリナがこちらを振り返ったのが見えた。
ガウリイは反射的に身を隠すと、少ししてから恐る恐る外を見つめた。けれど、そこにはもうリナの姿はどこにもなかった。
「リナ……」
自然とこぼれる愛しいと思う少女の名。
だけど自分にはその資格がないと――ガウリイは思った。
シルフィールとの関係はただの同居人――その一言に尽きる。
けれど、別の女性と一緒に暮らしていたということが周囲の人にどういう風に見られるのか、改めて感じたからだった。二人の関係を否定しても、信じてくれる人は少ないだろう。
とくにガウリイはともかく、シルフィールにははっきりとガウリイに対する想いが溢れていた。リナもきっと知っているだろう。
だからこそ、リナの口から『結婚』という言葉が出たのだと、ガウリイはそう思った。
「でも、オレは……」
このままリナを追いかけて行きたい。だけどそれとは反対に、セイルーンに行って事の真相を確かめ、サイラーグへと戻らなくてはならない。
二つの考えに挟まれ、ガウリイはいつになく頭を使って考えた。
たとえ愛していなくても、シルフィールは二年間一緒に暮らし、また、同じようにサイラーグの復興に手に手を取って努めてきた仲間だ。
シルフィールはガウリイが帰ってくるのを待っている。そんな状態で、どこへ行ったか分からないリナを追いかけてどうするのか。もう一度会って何をしたいのか、それも分からない。
それに、このままリナを追いかければ、サイラーグへと戻れないような気がした。
サイラーグの人たちに対する罪悪感ではなく、リナに関わることで何かが変わる――そんな予感。
けれど、いつも心に蟠っていた思いが、リナに出会い、変化した。これ以上自分の心を偽ることはガウリイにはできなかった。
(リナを探そう。たとえサイラーグの人たちを……シルフィールを裏切ったとしても、オレはもう一度リナに会いたい。そしてこの思いを伝えたい。とにかくそれからだ)
ガウリイはそう思って荷物をまとめようとした時だった。
不意に歪む空間。同時に昔感じたことのある気配が生じる。
「ゼロス……か?」
「ご名答です。さすがガウリイさん♪」
半分人を馬鹿にしたような答えと共に、闇の中から一人の人物が現れる。
「何の用だ?」
「ちょっとリナさんに用がありまして。そしたら隣でガウリイさんが極上の負の気を出していたんで、ちょっと味見をさせていただきました」
そういうゼロスを見つめながら、ガウリイはじりじりと横へ動き、ベッド脇に置いてあった斬妖剣に手をかける。
「嫌ですねぇ。ガウリイさん。そんな物騒なものに手を出して……」
「どういう意味だっ!? なんでリナのところへ……リナに何をしたんだっ!!」
先ほどまで、ガウリイはリナが逃げたのは、自分があんなことをしたせいだと思っていた。
そういうことに対して初心で純粋なリナは、自分とシルフィールの関係を慮って出て行ったのだろうと思ったのだ。
だけど、そこへゼロスの登場――過去の記憶も含め、何かが裏で糸を引いているような気がした。
「おや、珍しくガウリイさんが頭を使ってますねぇ」
「答えろ! ゼロスッ!!」
人を小馬鹿にしたゼロスに、ガウリイは苛つき大声を上げた。
「いえ……ただリナさんには、これ以上僕たち魔族に手を出して欲しくないんで……ガウリイさん、あなたの命を盾に脅させてもらっただけですよ」
「オレ……の……」
「ええ、リナさんは素直でしたよ。よほどガウリイさんのことが大事なんですねぇ」
「リナ……!」
ゼロスの言葉に、ガウリイは心臓が鷲掴みにされたような気がした。
まさか自分の命を盾に、リナがゼロスに脅されていたなど露ほどにも思わなかったのだ。
そして、二年もの歳月を何も知らずにのうのうと生きてきたのだと、そう思うとリナに申し訳ないという思いでいっぱいになった。
いや、それより今はリナを追わなくては――そう思い、ガウリイはゼロスから目を離し荷物をまとめだした。
「おや、追いかけるんですか? それじゃ、せっかくガウリイさんのために、というリナさんの思いを台無しにするようなもんですねぇ」
ゼロスは肩をすくめ、残念そうに言うが、ガウリイはすでにそんなことは気にしていなかった。
手早く荷物をまとめると、リナと同じように窓を開ける。すでに深夜のため、宿の入口は閉ざされていると思ったのと、ここから出たほうが早いからだった。
「おやおや。それではガウリイさんは死にたい……そう言うんですね?」
「うるさい! オレはオレのしたようにする。お前に指図は受けない!」
ガウリイはゼロスを睨みつけ、一言そう言うと窓から飛び降りた。そしてそのままリナの去った方向へと向かって走り出した。
ゼロスは黙ってその姿を見送る。魔族特有の残酷な笑みを浮かべながら。
「ま、僕としても大人しいリナさんなんて、つまりませんからね。せいぜい楽しませてくださいよ」
ゼロスは一人呟くと、誰もいなくなった部屋を後にしたのだった。